●ホーエンシュタウフェン朝 ホーエンシュタウフェンちょう
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
シュタウフェン朝とも呼ばれる。南独シュヴァーベン地方の豪族で,コンラート3世(1138〜1152)以後,フリードリヒ1世(赤髯=バルバロッサ 1152〜1190)・ハインリヒ6世(1190〜1197),中断後,フリードリヒ2世(1212〜1250)・コンラート4世(1250〜1254)と歴代のドイツ皇帝が輩出したが,この時代にドイツはヴォルムス協約体制下で封建化が進み,王朝の集権国家樹立策は失敗した。【神聖ローマ帝国の封建化】1125年ハインリヒ5世の死でザリエル朝は断絶したが,ドイツの諸侯は血縁では最近のシュタウフェン家のコンラートではなく,ザクセン公ロタールが次の王に選出された。が,ロタールが1137年に死去した後,女婿で帝国最強の諸侯のヴェルフ家のハインリヒを選ばず,コンラートを王に推した。王朝が短期間に交代した理由は独王権の性格にある。王が皇帝を兼ねる国制は,オットー大帝による神聖ローマ帝国成立以来独王権を強く規制した。キリスト教会の保護者・世界支配者たる皇帝という普遍的理念と,イタリアなどの属領を含む“ドイツ帝国”の王という現実との葛藤に留まらず,王家の血統権と諸侯の選挙権の両原理の対立に,時として教会のキリスト教ローマ皇帝権理念による介入を招き,しばしば選挙原理と適格者推戴を優越させて王朝を交代させた。王位にある者は子への王位継承のため,生前に息子を共治王に選挙させて置かざるを得ず,その際諸侯への譲歩を余儀なくされた。一見血統相続に見えても内実は選挙王制だった。上記二例は共治王選挙が欠如している場合の予想されるケースであった。
対立王朝とも言うべきヴェルフ家の勢力に直面しつつ登場したシュタウフェン朝である。ヴォルムス協約(1122)の基本原則は聖俗両権の対等性と相互協力で,この限りで皇帝権は世俗権力の最高位であり,聖教会と同様に神直属の“神聖帝権”であった。シュタウフェン朝はドイツ王権による皇帝的統治論により,教会の俗権への介入を阻止せんとする一方,叙任権闘争の結果帝国統治機構から失われた教会勢力に対しては,その世俗資産を世俗諸侯の有する封(レーン)と同様に扱い,独立性を強めつつある聖俗諸侯を一元的に封建法体系のもとで統制しようとした。
【帝国の分権化】帝国再編のために,シュタウフェン家はドイツの封建的分権化・諸侯の家領政策を容認した上で,これに対抗するためにシュタウフェン家の領国確立・帝国領の拡大強化・イタリア諸都市の経済力の活用をはかり,自領の家人層(ミニステリアーレス)をこの政策遂行に投入したが,集権的・官僚制的イタリア支配と分権的・封建的ドイツ統治という二元政策を採らざるを得なかった。ヴェルフ家のハインリヒ獅子公の失脚は,バルバロッサの封建王国建設の試みの成功であり限界も示した。家領のほかにザクセン・バイエルン両太公領を有し独自の外交も推進した獅子公が,利害対立からザクセン貴族に平和侵害行為を告発されるのを待ち彼を帝国追放に処し,不服従をもって封建法の誠実義務違反の科で両太公領を没収したバルバロッサであったが,没収した封を帝国諸侯に再授封せざるを得ず,帝国領拡大に資することができなかった。十字軍途上で事故死した父を継いだハインリヒ6世は,婚姻により得たシチリア王国の集権官僚制統治に立脚し北伊の経済力を頼りにドイツの集権化・世襲帝国化をはかるが早世し,逆に1198年の国王二重選挙でシュタウフェン家とヴェルフ家の王が並立し,教皇インノケンティウス3世の介入を招いた。歴代教皇は独伊の統合を脅威と見,南北イタリアの統合も阻止せんとしていた。フリードリヒ2世の政策の重心もシチリア王国とイタリアにあり,1220年の教会諸侯との協約,1232年の世俗諸侯との協約でドイツの領邦分裂化を承認し,ドイツ諸都市・市民層と王権の提携の道を閉ざす結果になった。
〔参考文献〕H.ミッタイス・H.リーベリヒ,世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説 改訂版』1972,創文社
G.バラクラフ,前川貞次郎・兼岩正夫訳『転換期の歴史』1964,社会思想社