●ポエニ戦争 ポエニせんそう
ヨーロッパ イタリア共和国 BC264
前264年から前146年までの間,三回にわたって戦われたローマとカルタゴとの戦争。この戦争の勝利により半島の農業国家ローマは地中海の覇権を握り,帝国化への道を開いた。【第一次】前264〜前241 南イタリアのギリシア人諸都市を服属させたローマの勢力が,西部にカルタゴ領のあるシチリア島に及んだことが原因。海戦の経験のないローマはカルタゴの戦艦に倣って艦隊を建造,ミュラエで勝利する。(前260)。しかし,カルタゴへのローマ軍の遠征は敗北,一進一退の後,結局兵員の供給力と団結力に勝るローマがカルタゴを圧倒,アエガテス諸島沖の海戦で勝利を収めた。カルタゴは3,200タラントの償金とともにシチリアを放棄(シチリアはローマ最初の属州となる)。次いでローマはカルタゴの内紛に乗じてサルディニアを獲得,属州とする(前238)。さらにコルシカをも併合した(前227)。
【第二次】前218〜前201 第1回戦争の末期に活躍したカルタゴの名将ハミルカル=バルカはローマへの報復を計るが制海権の喪失により海上からの進行を断念,スペインのカルタゴ領から陸路イタリアを衝くことを計画。彼がほぼ独力でスペインにつくり上げた勢力は,女婿ハスドルバルを経て長子ハンニバルが継承。ローマが国境の町サグントゥムの帰属をめぐって宣戦すると,ハンニバルはただちに6万の兵とともにピレネー・アルプスを越えて北イタリアに侵入,トレビア(前218)トラシメネス湖畔(前217)でローマ軍を連破。ローマは独裁官ファビウス=マクシムスの消耗作戦によりハンニバル軍の疲弊を待つ。しかし彼が「臆病者」の称を得て退けられると,ローマは決戦に転じ前216年にカンナエに8万6,000の軍を集めるが,ハンニバルの巧みな用兵により5万の兵を失う大敗北を喫する。しかし,ハンニバルの期待したイタリア統治の崩壊は起こらずローマ支配の強固さが実証される。ハンニバルはまたマケドニアのフィリッポス5世と同盟しローマの挟撃を策するが,これもローマ軍によって阻止される。一方ローマはスペインにおけるハンニバルの根拠地を攻略するために,プブリウス=スキピオ(大アフリカヌス)を派遣,カルタゴ軍の駆逐に成功した。ハンニバルの弟ハスバルドルは,兄との合流を計るが北イタリア・メタウルス川でローマ軍の待ち伏せにより全滅。長く南イタリアを転戦していたハンニバルは増援の希望を断たれ,スキピオのアフリカ上陸の報により帰国,最後の決戦を挑むが,前202年ハンニバルの戦法を学んだスキピオによりザマの決戦に敗れローマの勝利が決定的となる。ハンニバルは東方に逃れ反ローマの追及によりついに自殺。カルタゴは1万タラントの償金・艦隊の引き渡し・軍事活動の制限等の条件を容れて講和,同時にスペインを放棄した。
【第三次】前149〜前146 第2回戦争の勝利の後もローマはカルタゴに対する警戒の念を緩めず,ローマの藩王国ヌミディアの侵略に対してカルタゴが軍事行動を起こすと直ちに宣戦,アフリカに軍を送る。和を請うたカルタゴも都市放棄の条件は拒否,徹底抗戦を決意。ローマはスキピオ(大アフリカヌスの孫)を送り包囲戦の末全市を破壊,この地を属州アフリカとする。この前146年はコリントス破壊の年でもあり,ローマが地中海世界での競争者を圧倒し去った年と言える。
ポエニ戦争後ローマの権力はイタリアの外に及び,征服地は属州とされ,その統治にはローマから総督が派遣された。ある属州では請負制による租税の徴収が行われ徴税請負人は巨富を築く。反面,戦争の破壊・長い兵役などによりイタリア農民は疲弊,離農して都市に流入するものが増加する。これにより農業国家ローマは変質,戦争の結果生じた大量の奴隷を使用する放棄大土地所有制(ラティフンディウム)が発達した。そのほかイタリア人のローマ市民権獲得運動などイタリア半島の社会・政治・経済に大きな影響を与えるに至った。
〔参考文献〕アラン=ロイド,木本彰子訳『カルタゴ−古代貿易大国の滅亡』1983,河出書房新社