●俸禄制度 ほうろくせいど
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俸禄は封禄とも書き,もと中国で諸侯に与える所領・官職についている者に与える料物などの意。日本の俸禄制度は,大化改新を経て律令体制が成立する過程で整備された。この古代俸禄制度が平安・鎌倉時代を経て変質・崩壊した後,武家政権が伸張して安土・桃山時代を経て幕藩体制が成立する過程で近代俸禄制度が確立され,明治維新当初にまで及んだ。古代俸禄制度は,初め私地私民制の廃止に伴う代償措置としての性格をもち,皇族・中央貴族・地方豪族らに位階と官職を授け,それらにつく各種の俸禄を収入として得させるものであった。律令制度では品階(ほんかい)をもつ親王,三位以上の位階をもつ王・貴族,および大臣・大納言(中納言・参議も設置とともに加える)に,食封(へひと・じきふ)=封戸(ふご・ほうこ)を,四位・五位の王・貴族に位禄を与え,また五位以上の王・貴族に位田,大臣・大納言および国司・郡司などに職田を授け,さらに在京の官人および大宰府・壱岐国・対馬国の官人には季禄(春夏・秋冬の禄)を給するなど,種々の封禄が定められていた。こういう規定のほか,奈良時代の中期ころから公廨稲出挙(くげとうすいこ)の利稲を国司の間で配分することが行われ,やがてこれが国司の主要な俸禄となった。
平安時代に入って,律令諸制度の変質期を迎えると,皇后など皇族や参議以上の貴族に一定の官位の叙任権を与えて叙任料を納めさせる年官・年爵や,上皇・女院に料国をあてて公納物を納めさせる御分国や,大納言以上の貴族などに親近者を国守に任じて俸料を納めさせる知行国など,反律令的俸禄制度も行われた。これらは,律令俸禄制度の維持が困難になったため補充するものとしておこったのであるけれども,反律令的要素をもっていたから律令体制をしだいに崩すとともに,鎌倉時代に入るとみずからも機能を失うようになった。鎌倉・室町幕府の支配下の武士は,将軍によって所有権を確認され,ないし新たに給付された領地に居住し,直接,土地・人民を支配しながら,鎌倉ないし京都に詰めて幕府から命じられた職務を果たしていた。貴族や寺社の支配下の武士も同様に所領を経営し,上京して役務に服した。
戦国時代から安土・桃山時代を経て江戸時代に入ると,独自に領国を支配していた諸大名も改めて徳川将軍から俸禄を与えられた近世大名として再編成された。その過程で将軍・大名の家臣として組織された武士は,居住地を離れて主君の城下に集住させられた。江戸時代初期にはこのような武士の俸禄として,知行する所領を与える地方(じかた)知行と,直接,米・金を給する蔵米給与の形態があった。しかし幕藩体制の確立とともに,家臣団の知行権は制限されてしだいに蔵米給与に切り替えられ,武士と所領との関係が断ち切られるようになった。こうして知行取りといわれた上級の家臣も,ほとんどは知行高に一定の年貢の割合を乗じたものを主君の蔵米から支給されるにすぎなくなった。たとえば知行500石取りの者は,四つ物成(ものなり)なら200石,三つ五分なら175石が与えられるわけであるが,しばしばその一部を金に換算して渡された。また地方知行がもとのまま残っている場合も年貢として徴収できる現物の数量は主君によって定められていた。知行地とまったく関係のない蔵米給与は,切米(きりまい)と扶持米(ふちまい)に大別できる。切米は中・下級の家臣に与えられる俸禄で何石ないし何俵で示され,初め年俸として1回に支給したが,しだいに2回に分けさらに3回に分けて春借米・夏借米・冬切米と呼ぶようになった。これに対して扶持米は下級の家臣に与えられるもので,1人1日5合の割で計算した年間の玄米の量を一人扶持とし,何人扶持で示し毎月支給した。切米・扶持米も金に替えて支給することがしばしば行われた。これらの俸禄は家禄・世禄となり職務と対応しなくなっていったので,役職につくと種々の役俸がついた。やがて明治維新を迎え金禄公債発行をもって近世的俸禄は廃止された。