●法隆寺再建論争 ほうりゅうじさいけんろんそう
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法隆寺の金堂・五重塔・中門など主要堂塔が創建当時のものか,再建されたものかという論争で,1905年(明治38)から本格化した。論争の鍵は『日本書紀』の670年(天智天皇9)4月の条に,〈夜半の後,法隆寺に災あり,一屋余すなし。大雨雷震す〉とある記事をどう解釈するかにあった。喜田貞吉らの歴史学者は『書紀』の羅災記事を疑いないものとして再建を主張,関野貞(ただし)ら建築史家は初め『書紀』の記事を誤りとし,様式・尺度論に基づいて非再建を主張した。関野は後に『書紀』の記事を承認したが,焼失したのは法隆寺境内に塔の心柱の礎石を遺す若草伽藍(がらん)であり,法隆寺ではないという二寺併存説を唱えた。その後,論争の進展のなかで1939年(昭和14)12月,古代寺院跡発掘の大家である石田茂作によって若草伽藍跡の発掘調査が行われ,その結果二寺併存説は崩れ,再建説が有力となった。