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●法隆寺 ほうりゅうじ

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 奈良県生駒郡斑鳩町に在る。斑鳩寺・法隆学問寺とも言う。もと法相宗大本山であったが,戦後法相宗を離れ聖徳宗総本山となった。金堂内陣の東の間に安置されている薬師如来像の光背の銘文によれば,この像は用明天皇の発願によるものであるが,その願を果たさずに崩御されたので推古天皇と聖徳太子が遺命を奉じて607年(推古天皇15)に寺と像を造ったと言う。しかしこの薬師如来像は623年造立の釈迦三尊像(金堂内陣の中の間に安置)より様式上時代が下るということ,その他の理由で光背の銘文を疑う説もあるが,『日本書紀』には,推古天皇14年に聖徳太子岡本宮において法華経を講説し,その時天皇から賜った播磨国の水田100町を斑鳩寺(法隆寺)に納れたという記載もあるので,推古天皇15年ごろに法隆寺が創建されたことは事実であろう。法隆寺は金堂や五重塔を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍から成っているが,その西院伽藍が創建当初のものであるかどうかについて,明治から大正・昭和にかけていわゆる法隆寺再建・非再建論争がある。長い間寺においてはもちろん一般にも西院伽藍は創建当初のものと信ぜられてきたが,明治時代の中ごろ天智天皇の9年4月に法隆寺に火災があり,〈一屋余すなし〉という『日本書紀』の記載をもとに現在の法隆寺はその後に再建されたものであるという説が提出され,これに対して金堂・塔・中門などの建築様式が中国南北朝時代の様式によるもので,とくに建て物の柱間の長さが大化以後に用いられた唐尺ではなく,それ以前の高麗尺に基づいているなどということを根拠に非再建説が主張された。この論争は長い間にわたって続いたが,1939年(昭和14)の若草伽藍の発掘調査により,ここに南から塔・金堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍があったことが判明し,また若草伽藍出土の瓦は西院伽藍出土の瓦よりも古いことその他の理由から再建説が学界の大勢を占めることとなった。ただ再建の時期については異説があるが,大方の一致した意見としては,693年(持統天皇7)に法隆寺において仁王会が行われて天皇から天蓋が施入され,翌年には金光明経が納められているので少なくともこのころには金堂は完成していたものと考えられている。五重塔は金堂よりも少し遅れるが,遅くとも塔内の塑像が造られた711年(和銅4)までには完成していたものとされる。このほか中門・回廊・東室(ひがしむろ)・僧房なども,このころにはできあがっていたものと考えられ,次いで天平時代までに経蔵・鐘楼(現在の建て物は平安時代の再建である)・食堂が造られた。講堂については747年(天平19)の資財帳に記載がないのでその成立については諸説あるが,ともかく天平時代までに西院伽藍はほぼその形を整えたと言ってよいであろう。次に東院伽藍は739年,僧行信が斑鳩宮の旧跡の荒廃を嘆いて聖徳太子追善の意をもって創建したもので,瓦葺き八角仏殿(夢殿)を中心として,同じく瓦葺きの講堂および僧房二棟と桧皮葺きの回廊・門二棟・建物三棟から成っていた。このうち奈良時代以来の建て物は夢殿と講堂(伝法堂)だけであるが,夢殿は鎌倉時代にかなりの改造が加えられている。全体として法隆寺の建て物は平安時代以来いくたびも修理の手が加えられ,また火災や雷火による焼失や大風による顛倒の後の再建あるいは新たな建立があり,それゆえ法隆寺には白鳳時代から室町時代に至る各時代の建物があって,建築の様式や技法の変遷を知る上でのよき具体例と言えよう。また古代の仏教美術の作品を中心に,彫刻では金堂の釈迦三尊像など多くの仏像が,絵画では玉虫厨子の扉や台座および橘夫人念持仏厨子の台座の絵がある。火災で焼損した金堂の壁画さらに工芸品は,仏具・文房具・調度品・飲食器・楽器楽具・染織品・武器武具など多方面に及びよく正倉院の宝物と比較されるが,奈良時代を中心とする正倉院の宝物に対して一時期早い飛鳥・白鳳時代のものが多いことが注目される。

〔参考文献〕『奈良六大寺大観』1〜5,1968〜1972,岩波書店

『日本美術全集』2,1978,学習研究社

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