●法律 ほうりつ
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法または法律というのは、社会生活を規律する規範(禁止または命令)のうち、国家的な強制を伴うものをさす。犯罪を犯して刑罰を科されたり(刑法)、借金を返さないで損害賠償をさせられたり(民法)、交通違反を犯して運転免許を停止させらられたり(行政法の一種としての道路交通法)するのは、どれも法に違反したときの効果(法効果)として、国家的な強制が行われる例である。法と道徳とは、社会生活を規律する規範という点では共通しているが、国家的な強制を伴うかどうかで区別される。電車のなかで老人に席を譲らない態度は道徳には反するが法に違反するものとされていないから、何らの国家的強制も生じない。 法は、社会生活を規律する方法や違反した場合の国家的強制の性質によって、種類に分かれる。大別すると、国家と国民の間を規律した公法と、国民相互間の関係を規律した私法とに分かれる。公法の代表は、違反した場合に死刑・懲役・罰金などの刑罰を科する刑法、運転免許の取り消し・停止、営業停止、過料などの行政罰を科される行政法であり、私法の代表は、国民相互の私的な法律関係を規律した民法、商行為や企業活動を規定した商法である。
法を法源という観点で分類した場合、頂点に位するのは「憲法」であり、次いで国会の議決を経て制定される狭義の「法律」、国の行政機関によって制定される「命令」(政令とも言う)、地方公共団体がその地域の住民に対して制定する「条例」、議院や最高裁判所・地方公共団体の執行機関などの制定する「規則」に分かれる。
【西洋の古代法史】法の歴史がどこまでさかのぼるかは明らかでない。紀元前数千年も昔からナイルの河畔に豪華な文化を開花させたエジプトに、すでに文字で書かれた法典や裁判制度・租税制度などがあったことは、当時の生活を描いた壁画などから明らかである。また、紀元前3000年ごろからチグリス・ユーフラテス河谷に古代国家を建設した諸民族もそれぞれ法典を制定しており、なかでも前2000年ごろシュメール人のつくったシュメール法典、紀元前1700年ごろバビロニア人の制定したハムラビ法典(2.25メートルの石柱にアッカード語で刻まれたもの。ルーブル博物館蔵)が有名である。一方、パレスチナ地方では、ユダヤ人のいわゆる十戒を中心とするモーゼの法、イスラエル人によるヘブライ法などがつくられ、ギリシアでもアテネやスパルタなどの都市国家はそれぞれ法をもっていた。
しかし、古代国家の法の中で最も完備し、また後のヨーロッパ諸国の法の形成に強い影響を及ぼしたのは、イタリア人の手によるローマ法である。ローマ法における最初の著名な成文法は、共和政前期の紀元前451年に起草された十二表法であるが、その後ローマ帝国の長い歴史のなかで、ローマ法は政治・経済事情の変遷や政体の変化に対応しつつさまざまな変容を遂げることとなる。ローマ法が最も発達したのは、前202年にポエニ戦役でカルタゴに勝利を収め地中海の覇権を握った時から、284年に東西ローマ帝国に分裂するまでの時期であり、それより前の時代に形成されていた閉鎖的農業社会のもとにおける家族法・土地法・商品交換に関する取引法などが、領土の拡大・奴隷制生産様式の発達に応じて大幅に修正されることになった。とりわけ、貿易を手段とする商品交換を規律するため完備した私法秩序が形成されたのもこの時期である。
これら、長い期間をかけてつくり上げられたローマ法を集大成したのが、ユスティニアヌス帝のイニシァティブになる大規模な法典編集事業であり、530年代に学説集、法学提要、勅法として完成された。後に市民法大全と呼ばれ、ローマ法を代表するものとして後世に影響を与えたのがこれである。
ローマ法と並んでヨーロッパ法の源流をなしたのはゲルマン法であった。紀元前2000年ごろから歴史のなかに現れたゲルマン人は、やがてヨーロッパ北部に定着し4世紀後半の民族大移動までそこで狩猟や農耕を行っていたが、その法制度は紀元前後に書かれたケーザルの『ガリア戦記』、タキトゥスの『ゲルマニア』などによって紹介された。彼らはジッペと称する強固な氏族共同体を単位として大小の政治組織を形成していたが、なかでも有名なのはジッペとジッペの対立関係である。すなわち、他のジッペの構成員によって生命・身体・財産が侵害された場合、被害者の属するジッペの構成員は現行犯人を殺害してもよいものとされ、このような犯罪が一夜明けて発見された場合には被害者のジッペの構成員には復讐の権利・義務が生じ、加害者のジッペの誰を殺しても差し支えないものとされた(フェーデ)。しかし、このような敵対関係はジッペ間の戦争の原因となったので、やがて上位の政治組織(キビタス)のなかに裁判制度が発達し、贖罪金によって復讐に代えうるような制度が形成された。これが罰金の原始形態と言われている。また、ジッペあるいはキビタスの内部で宗教上の犯罪・反逆罪などが行われると、犯人は平和喪失者として組織から追放された。
このように、ローマ法はどちらかというと私法制度を中心として発達したのに対し、ゲルマン法は刑法を中軸とする公法上の制度を展開させた。これは、ローマ法では個人が個人として尊重され個人対個人の関係が重視されたのに対し、ゲルマン法では全体のなかにおける個人という側面が強調され、したがって全体と個人との間の関係に注意が向けられた結果と言えよう。そのため、ローマ法では行為者の主観面(故意・過失・目的など)や行為の反倫理的意義などが考慮されたのに対し、ゲルマン法では行為から生じた結果が重んじられた。このようなローマ法的な行為主義とゲルマン法的な結果主義との対立は、法思想・法制度上の二つの型の源流をなして今日に至っている。
【ヨーロッパ中世法史】ヨーロッパの歴史は、4世紀から6世紀にかけてのゲルマン民族の大移動、476年の西ローマ帝国の滅亡を経てフランク帝国の成立以後中世に足を踏み入れるが、ヨーロッパ中世法の特色をなすのは、何と言っても土地制度を中心とする封建的法秩序であった。ゲルマン諸部族の法として名高いのは、サリカ法(6世紀)・リブアリア法(630〜750)である。
フランク帝国は、843年と870年に三分割されるが、そのなかで中世ヨーロッパにおいて最も充実していたのが、後に962年に神聖ローマ帝国となった東フランク(ドイツ)である。そして、この時期に、ヨーロッパ中世の封建法はいわゆるレーン制、つまり領主から封臣に勤務と誠実の対価として土地・城などの財貨が与えられるという制度、いわば土地支配を通じて人間を支配するという制度を中心に確立することになった。もちろん当時の政治機構は各地の封建領主を中心とする地方分権制度であったから、法律もまた各地方ごとに発達したのであって、それらの模範となったのがザクセンシュピーゲル(1220〜1230)である。
しかし中世の歴史が進むにつれ、資本主義が発達し商品の生産や取引きも活発化することとなった。それにつれてゲルマン的な封建法では間に合わないという事態が生じ始め、かつて詳細な私法秩序を生み出したローマ法が注目され始め、いわゆるローマ法の継受が開始されることとなったのである。ローマ法への回顧は、実は12世紀以来イタリアの諸都市とくにボロニアで始まっていた。その形は当時の支配的な学問であるスコラ学派の方法を用い、あたかも聖書の解釈の体系化を行うかのように、ローマ法の集大成である市民法大全に純理的な立場から注釈を加えるというものであった。そこでこのような研究に携わった人々を注釈学派と称する。ところが13世紀後半になると、ローマ法を実社会に活用する必要が強まり、そのような実践的目的に従って市民法大全に注釈を加えるという方法に転換が行われた(後期注釈学派)。そしてそのころから、ドイツを含めヨーロッパ各国から学者がイタリアの大学に留学し、そのような形のローマ法研究をすることが流行になった。留学した学者たちは帰国後行政官や司法官となり、ローマ法の知識をもって行政や司法の近代化に努めたので、ローマ法はヨーロッパに普及した。これがいわゆる“ローマ法の継受”であって、ヨーロッパ近代法はここから始まると言われている。
ローマ法の継受は、ドイツでは私法の分野は裁判の形で、刑法の分野は立法という形で進行した。ドイツ普通法と言われる一連の立法がこれであって、その総決算が「カール5世の刑事裁判令」(カロリナ刑法典)(1532)である。これは神聖ローマ帝国の統一法典であったが、地方分権の強かった当時のドイツでは、各地の地方法・都市法を完全に排斥して実施されたとは言えない。しかしこれが1970年まで効力をもった唯一の帝国刑事法典であったことは確かである。
【ヨーロッパ近世法史】しかし、ヨーロッパの歴史はこの間ルネッサンスや宗教改革を経験し、近世へと突入していった。近世初頭の政治形態はいわゆる絶対君主制であり、とくにその当初は苛酷な刑事制度が確立した。残虐な執行方法による死刑や身体刑が刑罰の中心となり拷問が多用され、刑罰は公開で裁判は非公開、加えるに国家刑罰権が市民生活の隅々まで網の目のように張りめぐらされた時代である。このような制度が19世紀まで続いた地方もあったが、18世紀に入ると、17世紀のころから唱えられていた近世自然法論の影響を受け、法の人道化・合理化を目指して法典編さん事業に着手すると言われる啓蒙君主の現れる国もあった。1794年のプロイセン一般ラント法、1811年のオーストリア一般民法典、1813年のバイエルン刑法典などがその代表的作品である。
しかし、法の近代化という点で巨歩を印したのは、フランス革命後のヨーロッパを席巻したナポレオンの手に成るいわゆるナポレオン法典である。これは、フランス革命を指導した啓蒙思想を基盤とするものであったため、個人主義・自由主義が基調とされ従来の諸法とは面目を一新するものであった。最初1804年に『フランス人の民法典』が制定され、のち相次いで商法典・民事訴訟法典・刑法典・刑事訴訟法典が完成し、これらをあわせて世にナポレオン五法典と称せられている。そしてこのナポレオン法典は、その近代性のゆえに19世紀における各国の立法に強い影響を与え、日本法を含む今日の世界の法制の基礎となった。
【英米法史】これに対し、イギリスではヨーロッパ大陸とは異なる法制を展開して今日に至っている。イギリス法の起源は11世紀のノルマン王朝にさかのぼると言われ、そこではヨーロッパ大陸より早く国王の中央集権が確立したため国王裁判所の管轄が全国に及び、封建制度に伴って発生しがちな地方慣習法の統一がある程度実現したのであった。そしてそこで通用される法規範として13世紀にはすでにコモン=ローが確立していた。コモン=ローの特色は、大陸における諸法典のような成文法ではなく、裁判所が個別な事件ごとに言い渡す判決の積み重ねのなかに法源を見る、いわゆる判例法であるところにあった。
しかしイギリスでも、中世末期から近世初頭にかけてコモン=ローが硬直化し、資本主義の台頭に伴う社会生活の変貌に十分応えることができなくなった。そこで、通常の裁判所による取り扱いに不満を覚える者が国王に直接嘆願する事例が増えたため、国王は大法官にその紛争を判断させ個別的に事件を処理させるようになった。このようにして、大法官の判断が蓄積されるにつれてそこにコモン=ローとは別個な判例法が形成されることになり、これを世にエクイティ(衡平法)と呼んでいる。イギリスではコモン=ローとエクイティとが並行して存在し、それぞれ独自の裁判所をもつ独自の法体系として発達してきたが、1870年代に至ってようやく両者の融合が図られ、同一の裁判所で両方の事件が審理されるようになった。
このようなイギリス法は、基本的にアメリカに移入された。その結果、成文法を支柱とする大陸法に対し、今日では判例法を基軸とする法体系はアングロ=アメリカ法(英米法)と呼ばれている。しかし、アメリカは複数の異民族から成る合衆国であり各州がそれぞれ独自の法体系を備えていったことから、全体としてイギリスとはかなり異なる発達を遂げることとなった。連邦最高裁判所が違憲法令審査権をもち、しかもそれをしばしば行使して政治問題に果敢にかかわり合うところにもその独自性が表れている。また、裁判所の判例の先例拘束性もアメリカではイギリスより緩やかに解され、重要な判例変更がしばしば行われるところにもアメリカ法の特色が表れている。
【社会主義法史】さらに、現在の世界で見落としてならないのは社会主義諸国の法体系である。社会主義法の元祖は何と言っても最初に社会主義革命を遂げた国ソヴィエトである。ソヴィエト法もいくつかの時代的変遷を経たのは当然のことであったが、戦後1950年代の末から60年代の初めにかけ、刑法・刑事訴訟法・民法・民事訴訟法・家族法・労働法など基本法の大規模な法典編さん事業が行われ、1977年の新憲法を最後に一連の事業が完結した。そこでは、社会主義的所有・計画経済・男女平等といった社会主義の根本原理が、新たに導入された社会主義的合法性の範囲内で貫徹されている。社会主義法の有力なモデルはこのようにソヴィエト法であり、現にそれはいくつかの社会主義国の法制度に影響を与えた。しかし、その政治的影響の強い東欧諸国でも、ユーゴスラヴィアやポーランドのように独自の社会主義の道を歩み始める国もあり、また中華人民共和国のように、初めから固有の社会主義的慣習法の形成に努め、最近に至ってその経験の上に法典化を完成させた国もあるというように、現段階では国により革命の成熟度によりかなりの開きが見受けられる。
【日本法史】わが国における法制度の起源も明らかでない。弥生時代末期、西歴200年ごろ、氏族社会のなかで神の忌み嫌うような行為や出来事をツミとし、その穢れを除くためにハラヘという儀式が行われたとされているが、権力機構の強化とともにそれが犯罪と刑罰に転化していったという説もある。しかし、歴史上明確であるのは、大化の改新後中国大陸の影響を受けて形成された法制度であって、604年、聖徳太子の年によって17条憲法が制定され、701年には大宝律令、718年にはこれを修正した養老律令が完成した。これによって天皇を中心とする中央集権国家が確立された。なお律令を補うものとして「令義解」と称する注釈書がつくられ、また律令を補充する「格式」が編さんされたことを付言しておこう。
王朝後期になってしだいに私有田が増加し、やがて荘園の制度が形成されるようになると、土地国有制の上に立脚していた律令制度は崩壊し、検非違使庁の判例や慣習法を主流とするいわゆる庁例時代に移行することとなった。下って武家時代の法秩序は、幕府の中央集権的権力の強かった初期および後期には、全国に効力を有する中央集権的な法律も存在し、そのなかには当時の武家の慣習法を成文化したものも見受けられた。鎌倉時代における御成敗式目(貞永式目、1232年)や、江戸時代における公事方御定書(1742年)などがこれである。しかし、戦国時代を中心とする武家時代の中期においては、法は各大名の領域内でそれぞれ特別な発達を見るに至った。もちろんその内容は身分制度を中心とする封建法的なものであった。
明治維新後しばらくは、維新の王政復古という側面に合致するように、旧律令時代の法令に基礎をおいた法律、たとえば刑法の分野での仮刑律・新律綱領・改定律例などが相次いで制定された。しかし、幕末以来の課題である不平等条約の解消、とくに領事裁判権の撤廃を達成するためにはどうしても近代的な西洋法制を導入することが必要であった。そこで、政府は1873年(明治6)にパリ大学教授ボアソナードを招聘し、民法・刑法・治罪法(刑事訴訟法)の制定の準備に当たらせた。このうち、刑法と治罪法についてはその草案が修正の上法律となり、1880年公布、1882年施行された。民法についても、彼の草案をもとに審議が行われたが1890年になってやっと法律として公布された。しかし、この法律に対しては、穂積八束が〈民法出でて忠孝亡ぶ〉と述べるなど強い反対意見が続出しいわゆる法典論争が展開された。その結果民法の施行はついに見送られたのである。民法は、ずっと遅れて1896年にドイツ法の影響の強い草案が可決され、1898年に施行されることになった。
このように、フランス法に基準をおいた立法作業は、それがあまりにも個人主義に傾きすぎているところからわが国の国情に合わないとして必ずしも成功しなかった。これに加えて、1882年に憲法制定の準備のため伊藤博文がドイツへ向けて旅立ったころから、立法の模範はドイツであるべきだとの意見が強くなってきた。いずれも1890年に制定された旧裁判所構成法についてはルドルフ、旧商法についてはレスラー、旧民事訴訟法についてはテッヒョウといったドイツ人に草案をつくらせているところからも、この間の事情を推察することができよう。伊藤博文は、主としてドイツ人学者グナイストについて学び、プロシア憲法の影響の強い大日本帝国憲法を1889年に制定したのであった。その後民法が前述のような経緯で制定され、刑法もまた1907年にはドイツ法の影響の濃い現行刑法にとって代わられた。
このようにして、憲法を初めとする基本的な法律の体系は、主としてドイツ法を模範として完備することとなった。その意味でこれらの法典編さんがわが国の近代化に大きく寄与したことは言うまでもない。しかし政府は、これら近代的な法典の傍らにその時々の治安的要求に応じた特別法を配置し、当時の自由民権運動など別個なイデオロギーを基礎とする反政府運動を抑圧していった。明治初期における出版条例(1869、1875改正)・讒謗律・新聞紙条例(ともに1875)・集会条例(1880)・保安条例(1887)などがこれである。さらに明治末期には治安警察法(1900)・警察犯処罰令(1908)・新聞紙法(1909)が制定され、かくして完成した明治期の治安立法の体系は、戦前猛烈な威力を発揮した治安維持法(1925年、大正14)をピークとする大正期のそれへと引き継がれていくのである。
太平洋戦争の敗戦後、アメリカを中心とする占領軍のイニシァティブによって日本の大改革が行われた。法律の分野では、憲法(1946年、昭和21)・民法第4、5編(家族法)(1948)・刑事訴訟法・少年法(ともに1948)・労働基準法(1947)・労働組合法(1948)などのような、まったく新しい思想に基づく諸法律が制定され、憲法で宣言された基本的人権の保障は具体的な姿をとることとなった。戦後50年が経過した現在、戦後の総決算ということが言われている。今の時点になってみると、戦後の諸制度のうち50年を経る間に定着したものと、依然として借り着のようにギクシャクしたものがはっきりわかるようになった。その意味で総決算が可能な時期に到達したということができよう。戦後の日本の法制のなかにも問題を含むもののあることは確かである。しかし、この総決算の作業が誤って戦前への回帰への道のりを歩まぬよう祈りたい。