●法然 ほうねん
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1133〜1212(長承2〜建暦2)鎌倉初期の僧で,浄土宗の開祖。美作国(岡山県)久米稲岡に生まれた。父は久米の押領使,漆間時国,母は秦氏。1141年(保延7)父の非業の死に遇い,遺言によって復讐をあきらめて叔父の観覚に従い剃髪した。その後1147年(久安3)比叡山に登って源光の門に入り,また皇円に師事して天台の教学を学んだ。しかし間もなく天台の教学の悟りに疑問を抱き,僧徒の在り方にも納得することができなくなって,1150年(久安6)黒谷の叡空のもとに身を投じ隠棲して法然房源空と称した。以来約20年,天台のみならず諸宗の学を研鑽し,その間叡空に天台円戒の血脈を相承しているが,浄土の教えに眼を開いたのは恵心院源信の『往生要集』によるという。また『源空私日記』によれば,〈曇鸞・道綽・善導・懐感の御作より,楞厳の先徳(源信)の往生要集に至るまで奥旨を窺うこと二反〉,〈第三反の時,乱想の凡夫,称名の一行に如かず〉これこそ濁世の依怙・末代の出離と開悟したと語っている。ただこれがいつのことかは不明で,法然が黒谷を去ったのは1175年(安元1),43歳のときである。そしてそれ以前に『往生要集』に関する4冊の書を物し,ここから善導へと傾斜して『三部経大意』を書くことによって新しい第一歩を踏み出したことは間違いない。法然は下山して西山広谷の遊蓮房を訪い,その後,東山吉水に居を移して但信称名の専修念仏の弘通に専念することになる。これより彼の教えを請う者が集まり名声が広まったが,その目覚しい活躍は,1186年(文治2)天台の学匠である顕真が大原勝林院に法然を招き専修念仏の教えについて法然と論議をかわし,法然の説明に万座の者が感動しただと伝える〈大原談義〉を初め,南都東大寺で行った〈浄土三部経〉の講義,あるいは関白九条兼実の帰依,宜秋門院に対する授戒など,法然の伝記が伝えるいくつかの事蹟に窺うことができる。なかでも1197年(建久8)に兼実の要請によって著した『選択集』は浄土信仰の奥義を示して立教開宗の書として注目される。しかし貴顕の帰依とともに多数の信奉者や信徒が集まり,専修念仏が巷に聞かれるに至ったことは同時に既成諸宗に反感を植える結果となった。また多数の弟子のなかには念仏布教の熱意にかられて道を逸脱し,念仏には悪の恐れはないといった〈造悪無碍〉を説く者も出て,専修念仏の停止が叫ばれるに至った。法然はこのため1204年(元久元)天台座主に対して『七箇条起請文』を草し,門弟189人の連署を付して提出したが,翌年にはさらに南都から『興福寺奏上』が発せられ,念仏停止と不法な念仏者の断罪を要求する声がおこった。事態はたまたま後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中,女官のなかに法然の弟子に帰依して出家した者があったことから急転してこの罪科が問われるに至り,1207年(承元元)女官を出家させた僧などは死罪,法然は土佐に流罪となった。九条兼実の計らいによって讃岐に変えられ,その年の末には罪を許されたものの,帰洛を許されたのは1211年(建暦元)で,病を得て翌1212年1月25日に没している。没後1227年(嘉禄3)法然の墓を露こうとする山徒の暴挙が起こり,車前にこれを察した門弟は遺体を嵯峨に移し荼毘に付した。後に円光大師などたびたび大師号をおくられている。法然の念仏は貴賤・老幼・男女を選ばない。また激しい修行も学問も必要とせず,ましてさまざまな功徳を積み臨終の来迎を頼むものでもなかった。あえて言えば,ただ阿弥陀仏の救いを信じてその名を称えているだけでいいとする専修念仏である。こうした教えは法然によって初めて説かれたもので,万人の救いを目的とし愚痴無知の者も救われるとしたところに特色があるが,ただその心は深く信ずるまことの心をもって浄土に生まれたいと願う心であり,またつねに敬虔な心で,怠らず中途で止めず念仏以外の行をまじえず,いつまでも念仏を続けるものであることと説かれている。彼自身は日に6万遍の念仏を称えて心を澄ました禅定的境地に浸り,持戒清浄に努めた人である。〔参考文献〕田村円澄『法然上人伝の研究』(新訂版)1972,法蔵館
大橋俊雄『法然−その行動と思想』1970,評論社
梶村昇『法然』1970,角川書店
石田瑞麿『法然と親鸞』1973,秋山書店
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