●放送文化 ほうそうぶんか
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放送にはラジオ放送とテレビ放送があるが,今日,テレビ放送が放送文化の中心を占めているだけでなく大衆文化の中心でもある。10歳以上の日本人は平日で平均3時間以上テレビを視聴しており,日曜日にもなると4時間を超える。日本では,テレビ視聴は余暇時間の過ごし方としては最も長いもので,家族が集まるところにテレビが置かれている。価格の低下と小型化のため,テレビ受像機は1人1台のパーソナル化の傾向を強めているが,ラジオは完全にパーソナル化したメディアになっている。一般成人にとっては,ラジオは移動時あるいは災害時の携帯用メディアであって,あくまでもテレビの代理にすぎない場合が多い。しかし若者にとっては音楽を楽しむメディアとして,またおとなに干渉されないで接触できるメディアとしてテレビよりも好まれ,若者文化の主要な伝達媒体である。放送文化に関する専門雑誌には,『放送文化』『調査情報』『放送批評』『放送レポート』『放送研究と調査』などがあり,財団法人放送文化基金が放送文化の振興と放送文化に関する研究に対して援助・助成を行っている。【放送の歴史】わが国では,放送事業を運営するためには,電波法・放送法に基づく免許を必要とし,電波・放送行政を担当する主務官庁は郵政省である。日本放送協会(NHK)という公共放送と民間放送から成り立っている。1925年,東京放送局がラジオの仮放送を開始した。ラジオが情報伝達の手段として最も威力を発揮したのは,第二次世界大戦の終戦を告げる「玉音放送」であった。1953年にテレビ放送が開始されると,テレビは直ちに強大な影響力をもつマス=メディアとなった。
テレビの初期は,プロレスやプロ=ボクシングの中継を見るために繁華街に設置された「街頭テレビ」に人々が群がり,プロレスラーの力道山に人気が集った。次いで,喫茶店の客寄せにテレビが利用されて営業用として購入されるようになった。当時テレビ受像機は高価な機器であり家電製品になりきっていなかったが,徐々に少数の裕福な家庭に入っていった。子供たちがテレビを求めてさまよう「テレビ=ジプシー」の現象が生まれた。1958年 KR(現 TBS)で放送されたテレビ=ドラマ『マンモスタワー』は,テレビが映画を凌駕する状況を予見的に描いたものであったが,映画界はテレビを「電気紙芝居」と軽蔑し,大手映画会社はテレビ局を設立できる機会を有しながら敢えてそうしなかった。テレビの登場は,娯楽手段としての映画の衰退を招いた。テレビが流行をリードするようになり流行のサイクルも短くなった。
1959年,皇太子成婚のテレビ中継を契機にテレビ受像機が一気に家庭に普及した。1961年,「テレビを毎日みる」人が「ラジオを毎日聞く」人の数を抜いた。テレビを視聴しながら他の行為を行う「ながら視聴」「ながら族」ということばも生まれた。1963年11月23日,日本とアメリカの間で最初の衛星中継を行ったが,そのときに送られてきた映像はケネディの暗殺であった。これによってテレビ報道の国際化と速報性の時代が開幕した。1960年9月より本格的カラー放送が開始され,1964年,東京オリンピックを期にカラー=テレビが急速に普及した。1975年12月,テレビ広告費が新聞を追い抜いた。1984年,衛星放送が開始され,建前的には日本ではテレビ放送の難視聴地域はなくなった。
【番組の編成】日本のテレビ番組の編成には一定の形式がある。早朝はニュースを中心としたワイド=ショー,10時前後は主婦向けのワイド=ショー,昼はバラエティー=ショーか主婦向けのワイド=ショー,13時は昼メロ,15時前後は主婦向けワイド=ショー,18時はニュースあるいはニュース=ショー,19時は子供番組かバラエティー=ショー,20時から23時はドラマか映画かプロ野球中継,23時以降は男性向けワイド=ショー。アメリカで,フレッド=シルバーマンが編成しだいで番組の価値を変えることを実証して以来,日本の番組編成も柔軟になっている。大晦日の夜大半の日本人が NHK『紅白歌合戦』を視聴し,国民的行事のように定着している例もある。また,NHK の連続ドラマ『おしん』のように,その年の話題を独占するような番組が現れるようになった。かつてはアメリカのテレビ番組の編成を参考にし,良質の国産ドラマの不足を海外(とくにアメリカ)のテレビ=ドラマで埋めていた。しだいに日本独自のテレビ番組編成が確立し,海外のドラマが放映される機会が少なくなってきている。1971年の「世界のテレビ番組流通状況調査」によると,日本はテレビ番組の輸入比率では世界で4番目に低い国であった。国産番組の制作能力の高い国になったのである。
ビデオが利用できなかったころには,ロケーションはフィルムに頼らざるを得なかったし,スタジオ番組はすべて生放送で行われた。ビデオが本格的に利用された番組の第1号は TBS のテレビ=ドラマ『私は貝になりたい』であった。しかし一部しか利用されていない。テレビ番組の構成や演出は映画と比較すると素人っぽくて洗練されていなかったが,それがかえってテレビらしい猥雑な活力を与えていた。テレビ技術のなかで生まれたビデオの技術革新によって,ビデオによるテレビの表現が映像表現方法のなかで最も先駆的なものになるに至った。さらに伝達手段の発達により世界中のどこからでも同時中継ができるようになり,“生”放送であることが再評価されるようになってきた。
アメリカで24時間ニュースを成功させたテッド=ターナーの CNN(Cable News Network)の影響によって,テレビはニュース番組を重視するようになった。中継録画よりも生放送を優先し,アナウンサーが原稿を読むよりも記者が語りセットを組むよりも記者が走りまわる制作現場から中継する。これらは次に何が起こるかわからないというテレビ本来の魅力を巧みに演出したもので,完全に整理された情報よりも未整理でも速報性を重視する。こういった放送現場を見せてしまう演出や生放送の重視は,報道番組にとどまらずドラマやバラエティー=ショーにも影響を与えている。
ラジオは災害用メディアとしてだけではなく,誰かと聴取するものではなく個人で接触するメディアとして,テレビと異なる機能を果たしている。ラジオは,電話とスタジオを結んで擬似双方向のメディアとしての性格を強めている。社会の表層に現れる文化ではなく若者文化の一部分を担っている。ラジオの深夜放送は赤裸々な性表現で批判される場合が多い。
【メディア=イベント】放送の威力を印象づけたいくつかのメディアの歴史的事件がある。1938年10月30日,アメリカ CBS ラジオで放送されたオーソン=ウェルズ演出のドラマ『宇宙戦争』は,聴取者が実際に火星人が襲来したと勘違いしてアメリカ中がパニック状態に陥った。第二次世界大戦中,ケイト=スミスはマラソン放送で戦時公債の発行を驚異的に伸ばした。ケネディ大統領はテレビというメディアが視聴者に印象づける機能を利用した最初の政治家で,好ましいイメージをつくるように巧みにテレビを利用した。ニクソンとのテレビ討論会が大統領選挙でのケネディの優勢を決定づけたと言われている。放送には「地位付与」機能があり,出演すること自体が有名であることの証明と受け取られる場合がある。日本ではテレビ番組の人気タレントやアナウンサーの「タレント候補」が国会議員に立候補し,テレビの人気を背景に多数当選して「イメージ選挙」ということばが生まれた。 CBS のニュース=キャスターであるウォルター=クロンカイトのように,視聴者から高い信頼を得る人物をつくりあげることもある。
ラング夫妻は,テレビが現実のままではなく現実を再構成していることを,マッカーサー元帥の帰還パレードの実況中継放送の分析で明らかにした。放送の生中継で共有できた事件を E. カッツはメディア=イベントと呼んでいる。メディア=イベントとは,生中継であらかじめ計画されたイベントで英雄的パーソナリティーかグループが登場し,劇的で儀式的意味をもっていてそれを見なければならないような社会規範の力が作用するものである。日本人が視聴した最大のメディア=イベントは,皇太子成婚・東京オリンピック・ロッキード事件であった。さまざまな重大事件がテレビの視聴者をテレビに釘づけにした。1969年1月,東京大学安田講堂事件。1970年3月,よど号ハイジャック事件。1972年2月,浅間山荘事件。1977年9月,日本赤軍によるハイジャックなどがある。
【芸術としての放送】放送文化は,高級文化でなく大衆文化として位置づけられているが,それは放送が視聴率という数の論理で規定されているからである。少数の熱心な視聴者を獲得するよりもなんとなく見ている多数の視聴者を獲得したほうが番組の商品価値は向上する。視聴者の投書といった直接フィードバックの手段を除けば,視聴率以外の判断基準を設けることが困難である。そのために多くの人に受け入れられる共通項で番組が構成されることになる。テレビ開始の当初は,さまざまな分野の人間を寄せ集めて出発したためかえってテレビ番組に活気を与えた。初期のテレビ番組を担当した放送作家は,裏方から番組の表に出てくるケースも多かった。そういったかつての放送作家には,青島幸男・永六輔・小林信彦・野坂昭如・大橋巨泉・井上ひさしらがおり,放送の重要な担い手になり話しことばの文化を形成した。
芸術祭にも放送の部門が加えられた。『私は貝になりたい』『いろはにほへと』『どたんば』といったテレビ単発ドラマの秀作が生まれた。初期には,なんらかの形で著名な演劇関係者あるいは映画関係者の協力を得ていたが,今日では連続性や一度放送すれば消えてしまう放送の特徴を生かすことのできる放送独自の作家が誕生している。山田太一・倉本聡といったシナリオ=ライターは,映画ではなくテレビ=ドラマを活躍の場としてホーム=ドラマに独自の境地を開き,映画のホーム=ドラマを壊滅させた。吉田直哉は既成の作品のジャンルにとらわれずテーマが先行するフレックシブルな番組構成を開発し,日本的ドキュメントドラマの先駆者となった。和田勉は,狭いテレビ=スタジオ・貧弱なセットや美術を逆手に取って,大胆なアップを積み重ねる手法によるテレビ的演出を確立した。テレビ=ドラマのシナリオ専門誌『ドラマ』が刊行されている。放送においてはコマーシャル自体に人気があり,コマーシャル=ソングがヒットする場合が多い。短い映像に莫大な制作費を注ぎ込むので,映像作品として優れたものも少なくない。
【テレビ批判】テレビ番組の影響力の大きさと,番組が誰にでも公開されているということから批判にさらされることが多い。批判としては,番組の低俗化・暴力とセックス場面の過剰描写・CM の影響・報道の偏りなどであるが,最も批判が集中するのは低俗化の問題である。低俗化の問題に最初に火をつけたのは,1957年の大宅壮一の発言であった。大宅はテレビによって日本人は「一億総白痴化」すると誇張した指摘を行った。暴力番組は高視聴率を獲得するが,子供が暴力を模倣するなど批判が集中しやすいものでもある。これら批判に対して1960年,NHK は暴力場面を追放することを宣言した。これ以降プロ=ボクシングなどの放送をしなくなった。1963年,内閣広報室は,青少年問題とマスコミに関する国政モニター報告書により,テレビの暴力番組・低俗番組・多額の賞金を賭けたクイズ番組などを非難した。1970年,衆議院逓信委員会の放送小委員会は,日本視聴者会議理事長と地婦連事務局長を参考人として招き,番組の低俗化について意見を聞いた。1975年,共産党書記長がテレビの深夜番組の性描写を批判した。
テレビへの批判は,テレビがあるところには必ずあることがテレビ先進国のアメリカで最も批判が集約した形で出現していることでわかる。アメリカのテレビ批判の経緯は,政府が取り上げたものだけでもたどることができる。1967年,国立精神衛生研究所が中心となって「テレビと社会行動に関する公衆衛生局長官の諮問委員会」が設置され,テレビと社会行動の研究に対して100万ドルが供与された。研究は『テレビと社会行動』という5巻から成る報告書にまとめられた。これらの研究をもとに諮問委員会は,1971年12月『テレビと成長:テレビ暴力の影響』と題された報告書を公衆衛生局長官に提出した。この報告では,テレビの悪影響について極めて慎重であって,その有無については結論づけていないが研究者の間でも研究成果の解釈をめぐって論争が巻きおこった。このプロジェクトがきっかけとなってこの種の研究が活性化した。テレビの暴力描写が社会的関心事になったため,三大ネットワークは暴力シーンを自粛するようになった。1979年,その後のテレビの影響に関する研究を収集し整理する作業が国立精神衛生研究所が中心となって行われ,『テレビと行動:10年間の科学的進展と80年代への提言』という報告書が作成された。この報告書は,暴力だけではなくテレビに関するより広汎なテーマに関して,既存の研究成果を包括的で統合的に整理したものである。
テレビへの批判は暴力描写だけにとどまらず,性描写・性役割の描写・コマーシャルなどさまざまなものに及んでいる。性役割については,ステレオタイプ化された描写への批判が強く,職業の貴賤を示すような描写が批判の対象になっている。CM では,子供などの購買意欲を掻き立てることに対する批判が強い。日本は,海外の番組と比較して性描写が露骨であるためこの点についても批判が多い。1967年,アメリカ合衆国政府とジョンソン大統領は,「わいせつとポルノグラフィーに関する委員会」を設置し,1970年7月,最終報告書が委員会によって受理された。テレビの悪影響から子供を守るための「子どもとテレビの会」といった市民運動も生まれた。テレビ番組の悪影響に対して批判するだけではなく,テレビ番組を批判的に視聴する能力が身につけば悪影響から身を守ることができるので,そういった批判的視聴能力を育成する教育を児童生徒に行うべきであるという主張がある。アメリカ政府の教育局も1978年,批判的視聴能力のプロジェクトを募集し採用されたプロジェクトに援助した。これがきっかけになって,アメリカでは批判的視聴能力に関する研究や実践が活発になり,助成の対象になったプロジェクトでは優れた教材を開発している。
【教育と放送】わが国では,NHK 教育という制度的に保護された教育を主な目的としたチャンネルが存在したために,放送を教育手段として利用する活動が盛んである。教育を主な目的とした民間放送局もあったが,教育番組では商業的に成り立ちにくかった。テレビの学校放送の利用状況は極めて高く,講座番組などの継続利用者も多い。発展途上国などでは,教員や教材の不足を補う手段として放送を公式の教育として利用している。日本でも教育機会の拡充をはかるNHK 学園高等学校が設置されている。学校での利用ばかりでなく,社会教育の放送の利用は盛んで,放送で学ぶことを目的とした学習グループが数多く誕生した。NHK の働きかけもあって放送学習運動が根づいていった。学校放送だけではなく生涯教育手段としての放送が重視されつつある。1985年4月から本放送を開始する放送大学は,放送を主な教育手段とした遠隔教育のための大学である。当初は関東地域だけで開始されるが,将来は全国をカバーする予定である。
放送を利用した大学としては,イギリスのオープン=ユニバーシティが1972年に開校し実績を上げている。アメリカではテレビ番組が開始されたころから各大学が番組を制作して,公共放送局で流している。アメリカではテレビと印刷教材を含めたパッケージをテレコースと呼んでいる。その他の国においても,中国の電視大学があり,タイのスコータイ=タマティラート大学・カナダのアサバスカ大学などがある。わが国では放送に関することを義務教育でほとんど教えていないが,欧米におけるメディア教育の実践が紹介されるにつれて,メディア教育の一貫として放送について教えようとする気運が高まっている。成城学園初等学校では,「映像科」という時間を設けてメディア教育の長い歴史がある。放送現場に携わるディレクターや技術者の育成については,一部の芸術系大学や専修学校で行われているが,本格的教育は企業内教育に依存している。
【新しいメディアと放送】VCR(ビデオカセット=レコーダー)の一般家庭への普及によって,家庭におけるテレビ受像機のブラウン管をテレビ放送が独占する時代が終了した。テレビ受像機は,どのような映像メディアにも接続できるように改良が加えられ,単にテレビ放送を映し出すものではなくなった。テレビはブラウン管に出力できる VCR・ビデオディスク・パーソナル=コンピュータ・他の映像メディアと競合するのである。1984年にはアメリカではレンタル=ビデオの普及によって,テレビの視聴時間が減少するような事態に至っている。CATV は元来難視聴解消のために利用されていたが,CATV 局が自主放送番組を制作するようになった。空中波の放送と異なり,CATV は対象地域が限定されるため地域に密着した番組がつくられている。放送は一方向性であることが欠点であると言われてきたが,スタジオと家庭視聴者との間でやりとりができる双方向 CATV が可能となった。奈良県の東生駒で実験が進められている Hi-OVIS(Highly Interactive Optical Visual Information System)は,映像と音声の完全双方向通信を可能にしている。
衛星放送は,難視聴を解消することに主な目的がある。1984年開始された衛星放送は,当初 NHK 総合と NHK 教育の2波が予定されていたが,1波分が故障で送出不可能になったため,放送のサービスが NHK
総合に限られていた。衛星放送によって大都市部からの番組が全国で同時受信できるため,地方の放送文化が破壊されるのではないかと懸念された。高度情報社会の通信システムであるINSのサービスのなかには,VRS(ビデオリスポンス=システム)といった放送に近いものもあった。今後,一般の通信事業が放送に近似したことを行うようになるため,放送の独自性が希薄になる可能性もある。番組制作の技術革新によって高度な画像処理ができるようになっている。とくにコンピュータ=グラフィクス(CG)は,コンピュータで画像を制作し動かせるということで大きな期待を集めている。
〔参考文献〕日本放送協会編『放送五十年史』1977,日本放送出版協会
NHK 放送世論調査所編『テレビ視聴の30年』1983,日本放送出版協会
米国・国立精神衛生研究所編『テレビと行動』1983,東海大学広報学科広報メディア研究室
ディビッド=ハルバースタム,筑紫哲也ほか訳『メディアの権力』1983,サイマル出版会