●紡績業 ぼうせきぎょう
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わが国の太平洋戦争前における最大の産業部門。1866年(慶応2),イギリスのプラット社(Platt Bros.&Co.)製の18番手を標準とするスロッスル1,848錘・ミュール1,800錘・合計3,648錘・力織機100台を据え付けた工場が薩摩藩の鹿児島磯海岸に設立されたのが近代的紡績業の始まりである。維新後,新政府と島津家(薩摩藩主)がミュール機4台で1870年に堺紡績を,民間でも鹿島紡績所が東京に設立された。1877年まではこれら3カ所にすぎなかった(三始祖紡績所)。【二千錘紡績所と政府】この間,ジャカード・バッタン両機による織物業の技術改良の結果,綿糸の輸入をかえって増大させることになった。そこで,政府は綿製品が輸入総額の30〜40%を占める状況から,自ら機械制紡績業の創設をはかることとなった。こうして,いわゆる二千錘紡績所が[1]愛知・広島両紡績所の官設,[2]10基の無利息10カ年賦による払下げ,[3]輸入紡績機代金の立替払いという三方法により設立されることになり,その数は14カ所にのぼった。これらはいずれもまず綿花の栽培地や集散地に設立されているが,政府は全国250カ所に設置する目標を掲げていた。ところが,これらの設立資金は平均5万円で,運営にあたって内地綿と水車と二千錘規模に執着したために成績不良に終わった。
【大阪紡績の成立】1885年5月,自ら24万円の政府補助申し出を拒んで大阪紡績会社(後の東洋紡)が資本金25万円・錘数1万500錘(700錘ミュール機15台,プラット社製)で創設された。初め水力利用の適地を探したがなく,蒸気力を動力としそのため都市近郊に設立され安い労働力の使用が可能となった。また,二千錘紡の桑原紡績(大阪)が採用していた深夜業を導入するため電灯を採用した。また,最良の内地綿でも17番手しか製造できないことを知り,インド綿に切り換え国際競争力のある20番手を紡出した。1万錘規模という経済規模は山辺丈夫(やまべたけお)をイギリスの工場に入れ突きとめた。こうして,高配当政策により,1889年には資本金120万円・紡錘数6万1,320錘となり,遂に民間紡績業の先駆けとなった。
【紡績業の発展】紡績業は,はやくも1890年に第一次の恐慌を迎えるが,これは紡績業設立ブームによって一時的に金融市場や労働市場の限界に直面して過渡的な恐慌になったもので,凶作も綿織物需要を減らしたし,資金が急に必要となって利子率が上昇し労働力に対する需要が増して賃金が上昇して,紡績業一般の需要を減らしたためであるとされる。ともあれ,これを画期として業界はミュールからリング紡績機への転換・女工への依存・遠隔労働者の採用などを行った。リングはスロッスル(ウオーター=フレームの改良機)の改良機で製造時間も短縮され,非熟練・非力な女子でも操作でき,1891年に国産糸は輸入糸を,1897年には輸出糸が輸入糸を上回った。また混綿技術(各種の外国綿花を混合して最低コストをはかる)や,現地で綿花のまま売買する商業操作なども行い,政府による綿糸輸出税・綿花輸入税の撤廃(1894,1896),1893年,日本郵船のボンベイ航路開設によるインド綿花運賃の低減などのため発展した。日清戦争後の1902年,上海紡績会社が三井物産一部出資の在華紡として出現し,第一次世界大戦後の1920年以降,紡績業各社の資本蓄積(配当率50%)を背景として本格的に進出した。大戦期の1918年には,東洋紡績(1914年,三重・大阪紡が合併)と大日本紡(1918年,尼崎・摂津紡が含併),鐘淵の三大紡が綿糸生産の51.5%,兼営織布の64.4%を占め,三大紡のすべてが中国に進出。カルテル組織,紡績連合会は1882年に成立。恐慌ごとに操業短縮に乗り出し,1901年からの7年間のうち4年8カ月は操短期間であった。大戦後のレーヨンの誕生により昭和期,五大紡(前三社と日清紡・富土瓦斯紡)はじめ綿紡各社はレーヨンに進出,混紡によるコスト面で有利となった。太平洋戦争後はナイロンへ進出,重化学製品用に多角化している。
〔参考文献〕楫西光速編『繊維』上 1964,交詢社出版局