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●北条氏 ほうじょうし

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 鎌倉時代幕府の執権を務めた一族。北条早雲を始祖とする戦国時代の北条氏はこの北条氏と区別して後北条氏と呼んでいる。

北条時政の父祖】北条氏は桓武平氏と言われている。各種系図によれば,桓武天皇から五代目の平貞盛の末子平維衡の系統から平清盛が出ているが,北条氏は貞盛の次男平維持の系統で平直方を祖としている。そのことは『吾妻鏡』にも,〈上総介平直方朝臣五代の孫北条四郎時政主〉と出てくるので間違いないところである。直方の四男平聖範は熱海の走湯山権現の住侶を務めており,その子北条時方が伊豆介に任命されたとき,父聖範の居所に近い北条に居住し,北条氏を名乗ることになった。これが北条氏の始まりである。時方の子が北条時家でありその子が時政である。もっとも系図によっては時政を時方の子としているものもあり,このあたりの系譜については不明な部分も多い。さらに最近では,時家の弟北条時兼の系統が北条氏の嫡流であり,時政の系統は庶流にすぎなかったとする説も提起されている。ところが時政の娘北条政子が源頼朝と結婚し頼朝が伊豆で挙兵したことによって,北条氏の力は飛躍的に伸びていくことになった。もっとも,時政までの北条氏は“伊豆きっての大豪族”というわけではなく,むしろ勢力の小さい平家方の武士の一人にすぎなかった。それが,頼朝の外舅という立場からしだいに頭角を現していった点は注目される。とりわけ,石橋山の合戦における頼朝の敗北から富士川の戦いまでの間に,時政が甲斐源氏を味方にすべく工作にあたったことなどは,後の北条氏の発展を考える場合に,見過ごすことのできないできごとであった。

【執権としての北条氏】北条時政が執権になったのは1203年(建仁3)9月のことで,以来1205年(元久2)閏7月までその職にありあとを子の北条義時が継いだ。ところで,この時政・義時の時代は,北条氏による他氏排斥の動きが極めて顕著な段階であった。北条氏が表面には出なかったが梶原景時の排斥はその第一弾に位置づけられるできごとであり,その後,1203年には比企能員の誅伐,さらに1205年には畠山重忠の誅伐,1213年には和田義盛の誅伐と続き,3代将軍源実朝の死によって源氏の正統が断絶したあと,京都の九条家から将軍を迎え,将軍を傀儡として幕政の実権を握ることに成功したのである。

承久の乱得宗専制承久の乱の後,越後・越中・能登・加賀・信濃・駿河・伊豆・伊勢・丹波・美作・大隅の国々は北条氏一門の人々が守護に任命され,とりわけ駿河・伊豆をはじめとする重要地点はその中心である執権北条義時によって握られていた。こうした義時一人に権力が集中する体制を得宗専制と呼んでいる。得宗というのは北条氏の嫡統の当主,すなわち北条氏の家督の家柄のことで,義時のことを得宗と称したのが始まりである。9代執権北条貞時以後は,執権としてよりも得宗として幕政を左右するようになっていった。得宗はまた得宗被官つまり御内人との間に強固な私的直属関係を結び,さらに勢力を大きなものとしていった。北条氏はまた,執権のみではなく連署・六波羅探題鎮西探題などの幕政の要職を独占し,一門の赤橋氏・常葉氏・大仏氏・金沢氏・名越氏などが輩出した。

【北条氏の滅亡】14代執権北条高時は1316年(正和5)7月から1326年(嘉暦1)3月までその職にあったが,田楽・闘犬に耽り執権としての権威が失墜したとされ,『太平記』などによれば,田楽を法師とともに舞ったことが見える。しかし,鎌倉幕府の滅亡は高時一人のこうした所業のせいではなかった。1333年(元弘3)5月,新田義貞を主将とする討幕軍が鎌倉に攻め入り,そのため高時およびその一門の面々は東勝寺において自害しここに北条氏は滅亡した。なお,高時が最後の執権と考えている人が多いが,そのあと15代執権として金沢貞顕,16代執権として赤橋守時が就任している。

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