●封建制(日本) ほうけんせい
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日本封建制は,鎌倉幕府の成立より明治維新までと一般的に理解され,鎌倉・室町時代を中世封建社会,あるいは封建制前期・前期封建社会・分権的封建制と言い,江戸時代を近世封建社会・集権的封建制・封建制後期・後期封建制・純粋封建制と呼んでいる。封建制の理解には,中国周代の封建制度を念頭におく考え方があり,それに伴う国家統治組織概念と考えている。この場合の封建は,郡県に対する封建であり王室の藩屏として封建諸侯がつくられたとの考え方である。これを西欧のフューダリズムの訳語にあてたのは,地方分権そのものが類似していたことによる。徳川時代の儒者のなかにも,自分の生きている時代を諸大名の分立している時代と考え前記の考え方に近い形で理解している者も多い。しかし周代の封建制に対し,今一つヨーロッパでは,レーエンスウーゼンということばで理解されるものがある。レーエンというのは邑土とか封建という意味である。そしてそれを基礎とする制度,つまり国がいくつかの独立した,あるいは半独立的な領土に分割されてその上に権力が分散されているとし,この種の理解とのかかわりや,さらに農奴制経済の条件を満たすものと考えられるのが,前記時代との考え方が支配的である。しかし,その考えの裏には〈封建社会は独占的に土地に対する所有権を持った封建領主である支配階級と,土地の代わりに生産手段の生産に必要なすべての物的労働諸条件の所有者である農奴,すなわち直接的な生産者との対立に基づく階級社会〉(『日本社会の史的究明』岩波書店,80頁)との理解がある。そのこともあって,日本における封建制の始期を,荘園制のなかに農奴制を認める立場から,鎌倉時代でなく平安中期に求める人が多くなっている。名主と言われる武士の農業経済が,鎌倉から室町にかけて農業の支配的構成と考えられているが,それがすでに平安時代中期に見られる。その上に,平安時代の末から鎌倉時代にかけて奴婢解放が進み,役畜の使用も進み,農業も集約化した。名主は,自己のために農業を直接営むのを手作・正作・佃と言い,その代わり彼の土地所有の地にいまだ解放されない奴婢・下人・所従が名主から一応独立して小規模な農業を営みながら,名主の土地や労働手段に対して年貢を支払い,賦役労働を提供していた(前掲書参照)。こうした動きが,14〜15世紀にかけての南北朝の動乱のなかで最終的な奴婢解放が行われ,農奴に進んでいく。守護以下の家族たちは農業から離れ,家の子・給人たちをもって武士団を形成している。しかし,この段階をまだ家父長的奴隷制に基づく半古代的なものと考える者もおり,そのウクラードの理解の仕方は必ずしも意見が一致しているとは言い難い。それはともかく,一方には室町時代に入ると奴隷制的な関係はしだいになくなって封建的関係が一般化するようになる。それが室町時代の政治的な分裂の要因となる。そのためか狭い形で従来の血縁的紐帯のみによる党的なものでは地域支配を維持することができなくなって,領国大名というようなものがしだいにつくられてくる。とくに先進地帯ともいうべき近畿では,封建的小農民が自立し,その団結的結合が入会地や用水の共同管理・共同使用とかかわって郷村制をつくりあげ,惣・惣中・郷中などをつくることとなった。その主体がどういう形で本百姓とつながっていくかが解明されねばならないが,いまだにそれが十分説得的に解明されていない。ただ村落の結合組織が,近世の郷村制の基盤となったことは事実ではなかろうかと推定されている。いずれにせよ,日本の封建制の理解には,中世ヨーロッパのフューダリズムを範とした封土と授受を媒介とする封建的主従制をさすか,それとも農奴制に基づく領主農民関係によって構成された社会体制をとるかである。しかしこの両者はまったく別なものでなく不可分なものとして取り上げられるべきものであるが,法制史の立場にたつものと経済史の立場にたつものと取り上げ方が異なっている。しかし両者は相対的なもので事実としてはかかわりのあるものとして理解することが望ましい。いずれにせよ,西欧近代史学の影響のもとで封建が考えられ,中国史書とのかかわりでの封建についての考え方はいつの間にか消えてしまった。また新見吉治の考えのように,武家社会を世界史の概念に用いた方がよいという主張は,今は後景に引き下がっている。そういう意味で,日本における封建概念の歴史的考察も検討されてよいのではないか。封建社会の展開を考えるとき,[1]形成,[2]構造,[3]崩壊,という形でとらえている。その場合,土地制度・農奴制・封建的身分制を指標において追究されている。とくに[2]の構造では,荘園制を基礎とした身分的構造と西欧の場合を理解し,古代の村落共同体が封建的共同体へと変わった点に意義を見出す者もいる。ところが最近水田中心の考え方が否定されるに至り,荘園制のみでなくもっと異なった荘園制でないところ,すなわち公田制や山野漁村などの地域とのかかわりをもっと深めることが主張されている。日本にアジールなしとの見解も見出さ始めている。荘園制を中心に据える考え方の再検討も求められている。次に大名領国制の展開は,封建制の再編成かどうかということがよく言われた。荘園制の発達を基礎につくられた鎌倉封建制が,大名領国制の発展を基礎につくられた江戸封建制に編成替えされたのが室町の戦国時代であるとの主張である。これは荘園制否定が大名領国化とかかわり,荘園の解消が武士の性格を変え,在地領主の意味を失うという考え方とどこかつながっている。【荘園制と封建制】古代律令国家は10世紀に入ると,班田制の廃絶,租・庸・調・雑徭の変質,中央集権的国家財政の破綻など認められている。とくに,11世紀以降の院政期に入ると荘園制が展開する。それ以外の公領・国領も在地領主の勢力範囲ごとに分割されている。いわゆる国衙領に転形される。律令制社会の後には荘園制社会が続く。それをもって封建社会の最初の段階と見なしている。その上で,中央の荘園領主と現地の荘官となっている在地領主との間の職(荘官職)の補任という形をとった結合関係が,封建的主従関係を成立させている。また荘園領主と,在地領主と名主との間の関係が封建的領主農民関係の基本軸を形成している。
【鎌倉幕府下の封建的関係】平氏滅亡後,源頼朝は義経と不和になり,義経捜索を口実として諸国の反乱鎮圧のため,荘園制のなかに自らの地盤を育成するために,1185年(文治1)朝廷の許可を得て,諸国に守護地頭を設置し,守護に有力御家人を任命し,謀反人・殺害人の検断,大番催促,いわゆる大犯三カ条を任務としている。そして法規制面で荘園制を克服する第一歩をつくりあげた。それまでの荘園領主層は,給田・給名などの直属地において,下人・小百姓などの私的隷属民をつかって,奴隷主ないし農奴主的経営を展開していた。これ以降,荘園の基本農民たる名主層もしだいに領主的支配のもとに従属していき,荘園全体に対する土地所有権を把握するに至った。13世紀以降になると,地頭の荘園領主に対する非法な侵略が進み,下地中分・地頭請などが現れるに至る。在地領主層は鎌倉殿と主従関係を結び,御家人制は在地領主層の農民支配のための権力支配組織となっている。在地領主層も農民上層部分を家臣団に構成する。惣領制と言われる同族団的権力関係がつくられている。
【南北朝の内乱後の情勢】14世紀の南北朝の内乱は,古代的なものに終末をもたらし封建革命と称する人もあるほどの大きな社会変動期である。封建的生産を飛躍的に拡大し,二毛作の普及・水稲品種の多様化・多肥農業化・耕地の安定度が増し,焼畑を乗り越え水田農業の進展がもたらされ,集約的小農経営が発展し,在地領主や有力な強剛名主層が,下人・小百姓を労役しつつ行ってきた家父長制的大経営が縮小せざるを得なくなり,内部より従属農民が小農民として自立し始めている。その結果,農民層の上部には小農民経営の上に立って地主もしくは小領主へ上昇する者が現れた。その地主の一部を家臣団化して在地領主層として成長する国人層が生じている。それに対し,幕府はかかる国人層を組織する手段として守護のもつ大犯三カ条のほかに闕所処分権のごとき土地支配権の権限を与えたり,半済と呼ばれる荘園年貢の折半・荘地の折半を守護が認めたので,その執行権をもつ守護は国人領主と結び守護領国制を確立し,荘園制をまったく無力化するに至った。南北朝の内乱は荘園制を解体させる一大契機となった。
【大名領国制の展開】しかし守護領国制というのは極めてルーズな支配体制で,守護大名や荘官級の在地領主・国人領主・村落の小領主が権力を重層的構成をとって形成していた。言い換えると,封建的領主階級諸層間においては激しい闘いがあり,どの層が最も強く在地の農民を押さえこむかをめぐって,競合を続けていた。したがって,これらの層は一つにまとまることができなかったし,上層は,独自の権力をめざして一国公権にこだわっている。そうしたなかで,一揆・応仁の大乱などが相次いで起き,室町幕府・荘園領主は無力化し,地域的な領主層が発展しそれが大名形成の道を開いた。織田・豊臣政権は,封建的政治的なアナーキー状況を全国統一して,とくに荘園制を完全に打倒した上で兵農分離を実現している。しかし,大名領国制はつねに一向一揆・法華一揆のごとき反体制勢力を内包していたので,どうしても刀狩りその他が必要であった。その大名領国制を踏まえた上で,下剋上の根源を断ち切るため,検地・刀狩りを通じて封建小農を創出させ固定化させ,武士を城下町に集めて大名統制をその上に強化し,封建王権を強めたのが幕藩体制である。中間搾取階級を廃絶させ,封建小農民=本百姓体制を確立し,石高制に基づく生産物地代の取得者として大名を位置づけている。幕藩領主制は中世の在地領国制と異なり,一握りの直営地も持たぬものとなった。持っていても地方知行制を廃止して延宝ころには完全に寄生化している。
〔参考文献〕永原慶二『日本封建社会論』1955,東京大学出版会
永原慶二『日本中世の社会と国家』1982,日本放送出版協会