●封建制(中国) ほうけんせい
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【総説】封建ということばは,本来中国の古代文献に見られ,天子が臣下に封地を与えて国を建てさせそれぞれの地方を統治させる分権的政治体制を言う。このような体制が中国史上最も典型的に行われるのは周代であるが,その先駆的形態は殷代にも見られ,また周の封建制が崩壊して中央集権的皇帝政治が確立した秦以後も,封建制はさまざまに変形しつつ清朝時代まで存続した。中国で行われたこのような政治概念としての封建の語は,日本の中世・近世における大名領国制に対しても用いられた。明治以後になって,ヨーロッパのフューダリズムを封建制と翻訳したことから,封建制の語は,ヨーロッパとアジアを通ずる歴史上の普遍概念として用いられることにもなった。こうして封建制の語が,中国の伝統的な政治概念と近代歴史学上の用語との二つの意味を内包するに至る。この二つはそれぞれ異なった経緯によって形成されたものであるから,用法上は厳密に区別されねばならないが,周代的な封建制とヨーロッパのフューダリズムとは王が政治権力を封建した臣下たちに委ねている点で,極めて類似した政治形態をとることも事実である。そこで周代の封建制を中国史上のフューダリズムに比定する見解もある。しかし,それはやや形態上の類似にとらわれすぎた考えである。近代歴史学上の用語としての封建制概念は,人類史が経験した社会構成の一つを意味する。ヨーロッパ中世の政治社会制度がモデルになっているが,それを普遍的なカテゴリーにまで高めようとするものである。この観点から中国史上に封建制の時代を求めるとなると,そこに幾多の複雑な問題を生じ多岐にわたる見解が存する。まず,封建制概念を単なる政治形態の上からでなく,社会の本質からとらえるとすれば,それをどの点に求めたらよいかという問題がある。日本や中国の中国史研究における一つの傾向は,これを発展段階的にとらえて近代社会に先行する政治社会体制を封建制と呼ぶ。中国におけるそれの早い例は,1910年代の後半いわゆる新文化運動において,旧思想・旧制度を“封建”と呼んだことに見られる。これはさらに革命戦略における(反帝)反“封建”のスローガンに結びつくが,この場合“封建”の経済的土台は地主制度にあるとされ,土地改革が反“封建”革命の目標となった。こうした戦略の理論的基礎は,人類史の発展を原始共産制−奴隷制−封建制−資本制−社会主義制というふうに,生産様式の展開に基づいて法則づける史的唯物論にある。すなわち,当時の地主−小作の関係をヨーロッパ中世の封建領主と農奴との関係に比すべきものと考える。このように封建制の本質を農奴制に求める考えは,実践的課題から歴史研究の面に広がり,中国における封建制時代の開始をどこに求めるかが追究され今日に至っている。中国の学界では,[1]周以後,[2]春秋戦国以後,の二説が有力であるが,後漢〜魏晋以後という第三の説もある。わが国ではとくに戦後になってこの問題が活発に議論されたが,宋代以後盛行する佃戸制を農奴制と見なし,中国封建社会の開始期を宋代に求める説が出現して,時代区分論争の争点の一つとなった。以上の史的唯物論の立場からすれば,封建制の基礎は農奴制生産様式にあり政治形態は第二義的な問題となる。秦から清までの中央集権的官僚制支配の時代を,封建制の語で性格づけるのもそのためである。しかし1950年代以降,とくにアメリカに起こった E.O.ライシャワー氏らの“近代化”論では,封建制を生産様式に還元せず,封建制を人間関係の特殊な類型と考えた。そしてそのような観点から,封建制を経験した地域(西欧・日本)と経験しなかった地域とに分類し,前者のなかから近代化への自成的な道が生まれたとする。この理論では,中国は後者に属する専制的官僚制国家であり,その文明の高さにもかかわらず官僚主義的人間関係が近代化への歩みを妨げたという。この理論では,封建制と専制的官僚制とが対立関係でとらえられており,この意味から言うと中国にはかつて封建制の時代はなかったことになるが,それでは中国史にはヨーロッパの封建制に比すべき段階や構造は存在しなかったのかという問題がなお残る。【周代の封建制】封建ということばは,『春秋左氏伝』僖公二十四年の条の,周公旦が〈親戚を封建して,周に藩屏たらしめ〉たという文章に見える。周が殷を亡ぼした後,一族・功臣を地方に封建したことはほぼ確実で,周公旦の輝かしい幾多の創制の一つとされる。しかし殷王が,貴族や地方勢力との間に政治的統属関係を形成したのはすでに殷代に始まる。殷周時代の集落はすべて邑と呼ばれ,土地と人民が付属していた。邑の大なるものを中心として国が建てられた。これを作邑・作邦と言い邦は封に通ずる。王が臣下を封建するときにはさまざまの儀礼が行われたようで,江蘇省丹徒県出土の周代青銅器の銘文によれば,宜侯は周王から土地・人民とともに,にほい酒・鬲(れき)・丹塗りの弓矢・黒塗りの弓矢などを与えられている。諸侯は王に対して朝貢・従軍などの義務があり,また王の行う祭祀や集会にも参加したらしい。周代の諸侯には同姓諸侯と異姓諸侯があったが,王室と同姓諸侯とは本家・分家の関係にあり,異姓諸侯もこれに準ずるものとされ,これらの間の団結がつねに固められた。諸侯の国内でも諸侯と家臣とは本家・分家の間柄で構成されるのが基本で,家臣には国内の宋邑(領土と人民)が与えられた。これらの客身分は,王―諸侯―卿―大夫―士に階層化されていた。また孟子は,王―公―侯―伯―子・男の五等の爵位があったと言うが明らかではない。このように,周代の封建制は血縁関係を基本としており,周が殷を平定して東方に勢力を拡大するにつれてその血縁関係を政治関係にまで拡大したのが封建の制度である。したがって,政治的にはヨーロッパ中世のフューダリズムに酷似するが,社会の本質は血縁を原理とする古代的なものであった。社会の血縁原理が緩み始めた春秋時代には,封建関係にも変質を生じた。実力をもつ家臣が諸侯を凌いで国の政治をあやつる傾向が増したが,覇者の諸侯が出現すると相対的に周王の権力は衰えた。戦国時代になると,邑を基礎単位とする諸侯国は領土国家となって他国としのぎをけずった。領土国家では分封制度に代わって郡県制が現れ,封建的君臣秩序に代わって官僚制が君主権を支えた。中央集権的官僚制国家がここに芽ばえる。
【帝政時代の封建制と封建論】秦の中国統一によって郡県制が確立してから,封建制は郡県制(あるいは州県制)の対立概念として用いられることがふつうとなった。また郡県制を基本的政治体制としつつも,そのなかに封建制がさまざまに変形しつつ清朝まで存続した。たとえば漢では帝室と功臣に爵位を授け,それに基づいて封国を与え,郡県制と並立していわゆる郡国制を形づくった。しかし,封国の統治権はしだいに中央政府に奪われ,封国内の民衆の租税だけが与えられる体制に移行した。後世それも名目化し(虚封),他に実封を与えることが通例となった。しかしともかくも,このようにして封建制は封爵制(ほうしゃくせい)として存続するが,これは皇帝が帝室・功臣を含めた臣下を完全に官僚化できず,極めて制限された形ではあるが統治権の一部を彼らに分与せざるを得なかったことを示している。こうした視角からすれば,郡県制もまた封建制の変形と見なし得る。郡の太守や県令のような地方長官は,天子から地方政治を委ねられた一種の諸侯だという考えが生まれてくるのも不思議ではない。さらに地方が中央から離れる状況になると,中央政府は郡県の上に道などの監督機関を置くが,唐末・五代の節度使を藩鎮と呼んだように,そこにも諸侯のイメージが再生する。このように,封建制を克服して成立したはずの中央集権政治は,一方の極に擬制的封建制を生むことになるのである。中央集権政治に内在するこうした矛盾は政策論として郡県・封建の論を生んだ。つまり,皇帝権の一元化に強く傾いて郡県制を徹底させるべきか,あるいは封建的体制を加味することによって臣下の統治権への参加を認めるかという議論である。たとえば,唐の太宗がその功臣たちに州の刺史を世襲させようとしたのは後者の例である。それは現実と合わずすぐ中止させられたが,しかし官僚が為政者としての責任感と自発性を高めることを目的として,封建論はしばしば政界に台頭した。明末清初の思想家顧炎武が,〈封建の意を郡県に寓する〉趣旨から,地域と密着した県の令長制度を提唱したのは(「郡県論」),郡県制と封建制との統一をめざすものであった。
【中国史の時代区分と封建制】上述のように,封建制の概念によって中国史上の特定の時代を特質づけることにはさまざまの困難がある。しかし,中国史を発展の相でとらえようと試みるとき,ヨーロッパ中世のフューダリズムの時代との対比は避けられないものとなる。そこで,フューダリズムの本質を農奴制に求め,一方佃戸制を中国的農奴制と規定して,宋〜清時代を中国における封建制の時代とする見解がある。これに対して,魏晋南北朝・隋唐時代こそ,ヨーロッパの封建時代に比すべき中国の中世であるとする見解がある。後者は,20世紀初頭より内藤虎次郎(湖南)によって提唱され,その後継者たちの手で発展させられてきた説である。戦後,歴史学研究会を中心として前者の説が提起されるや,時代区分上の一大争点となって議論が展開されたが今日なお説の一致を見ず,わが国の学界にはおよそ二つの中国中世論が併存することになった。両説の相違の根底には方法上の相違がある。後者は,中国史を世界史上最も自成的な発展を遂げたものとし,秦漢帝国の瓦解によって古代的第一次的時代が終焉した後,魏晋南北朝・隋唐期の中世的・第二次的時代が訪れたとする。そのメルクマールは貴族政治の開花であり,統治形態は依然として皇帝の集権的官僚制であるが,しかし九品官人法に示されるようにその官職は門閥各家によって独占されている。これらの家は農奴に比すべき佃客を用いて大土地経営を行っており,また一般庶民との身分には天地の隔たりがある。ヨーロッパと異なって貴族階級が封建領主制を基礎とせず官僚的な性格が強いが,それは古代帝国の廃墟の上に中世社会が形成されたためで,中国中世は封建社会への傾斜を示しつつ官僚貴族制として開花したとする。そのほか官僚間の主従関係,異民族の国家建設,中世村落“村”の成立,仏教・道教など普遍宗教の流行等々,この時代のヨーロッパ中世との類似現象を指摘する研究が少なくない。
〔参考文献〕谷川道雄『中国中世社会と共同体』1976,国書刊行会