●封建制(西洋) ほうけんせい
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【風習と慣行】中世社会に普及した主従間の双務契約(主従制)と恩貸制とが結合して生まれた社会風習。主君と家臣・従者との間に見られた,主として支配者層間のレーエン制(知行制)を重視する法制史的な見方と,それらの支配者層の所領(知行)における領主・農民関係に見られた封建的農奴制生産関係を重視する社会経済史的な見方とがある。古代においては人びとは民族などの血縁共同体に保護を求めていたが,それらの血縁共同体が弛緩してくると,人びとは分散して実体のなくなった血縁共同体よりも近くに住む有力者の保護を求めるようになった。人びとから保護を求められた主君や領主は,保護を求めてきた家臣や従者を保護・養育し,家臣や従者は,約束した奉仕を給付するとともに主君に忠誠に仕え,主君の行う戦争や裁判に援助と助言を提供することとなった。主従の関係を強める意味で主君から家臣や従者に所領(知行)あるいは農耕地などが家臣や従者の身分に応じて貸与され,生活が保障されたのである。こうした風習は,すでにローマのクリエンテース保護制度やゲルマンのコミタートゥス従士制に溯源できる。中世に入って,そうした風習が上は王侯貴族から下は農民に至るまでの全社会階層に行われるようになり,しかも約1,000年間の長きにわたって存続することとなった。すなわち,王は,王に忠誠を誓ってきた貴族や豪族に対し大きな所領(知行)を与えてその所領に関する広範な統制権を分与し,他方,貴族は王に忠誠な軍役奉仕と助言を誓約する。そしてその関係は10〜12世紀に大いに発展し,王が分与した貴族の所領統治権がイムニテート(王吏不入権)としての性格を強め,貴族の死後もその後継子に所領が世襲・後継されてゆく授封強制の風も確立してゆくようになる。また貴族の奉仕についても,普通年間40日と言われる忠誠な軍役奉仕の外に,王の危急時(王の身代金支払い・王の長男の騎士叙任・王の長女の結婚)に上納金を納め,また貴族所領に関する王の後見権・結婚権・没収権などのいわゆる王の封建的附随権に服し,王の召集があれば王の法廷に出仕するという慣行も確立してきた。王と貴族との主従関係は,貴族の差し出す両手を王が王の両手でつつんで貴族の忠誠誓約を受けるという忠誠誓約の儀式によって結ばれていたが,しかし貴族たちは王だけを主君とするとは限らず,王以外の有力な貴族を領主とすることすなわち複数の主君を持つことも出来た。ただしその場合はその中の誰か一人を主要なる主君(リージ=ロード)と定める誓約をしなければならなかった。封建制は,王が貴族に所領と所領統治権とを分与した風習に見られるように統治権の分有を原則とするものであり,貴族の統治権がイムニテートとして発展すればするほど政治秩序が乱れ勝ちとなり,貴族の中には主君たる王に抵抗し反乱する者も現れるようになった。また貴族は,それぞれの所領内に,貴族に忠誠に奉仕する騎士(家臣)領を作り,騎士(家臣)たちにその所領統治権を分与した。その騎士(家臣)の軍役奉仕は王のために提供されることもあったが,それは貴族が王に負う軍役奉仕を代行するものであり,騎士(家臣)が行う軍役奉仕はあくまで貴族のために行われる奉仕であった。騎士(家臣)たちは,主君たる貴族の封建的付随権に服したが,また貴族は自領の安全防衛のために騎士たちの忠誠をつなぎとめようと努めていた。さらにその騎士(家臣)はその所領の農民たちとの間に封建的な領主・領民関係を結ぶが,普通はこれが一番末端の封建関係となる。その場合領主は,農民たちの生活手段として農耕地・家屋・播種用種子などを貸与して彼らの生活を保障・保護し,農民たちは領主に対し,彼らの身分に応じて自由農民の場合は金納地代を,不自由な農奴の場合は週何日かの週賦役を領主直営地において提供した。もちろんその外に農民たちは領主が開催する荘園法廷に服し,領主の恣意税や領主の封建的付随権下に服したことは言うまでもないが,農民の場合も領主は一人とは限らず,複数の領主から保有地を受けることもあり得た。したがって,それらの領主から受ける保有地の性格如何で一人の領主の下で不自由な農奴保有をしているが,もう一人の領主の下では自由な保有をするという事態も,とくに中世後期に入るとしばしば起こった。貴族や騎士らが知行として受けた所領は,かなりまとまった地域であることもありまた分散していることもあったが,いずれにしてもそれらの所領は村を単位とするものであった。そしてそれらの村には荘園制度と呼ばれる制度が行われていた。普通一つの村が一つの荘園となるが,村が複数の荘園に分れていたり逆に一村を超えた大きな荘園もあり得た。荘園の中心部分は領主直営地であって村の農耕地の半ばを占めることもあり,荘園農民の大部分を占める不自由な農奴たちの週賦役によって耕作・運営された。その他の農耕地は自由農民や不自由な農奴たちに貸与される農民保有地で,自由農民は金納地代を納め,農奴たちは週賦役を地代として提供していたが,収穫の繁忙時には自由農民も臨時賦役に参加した。農耕地以外の林や川・草地などは共有地として,普通は領主も含めた村人全体がそれぞれの土地保有高に応じた用益権を行使していた。荘園の農耕地は,領主直営地・農民保有地の区別なく,全農耕地を三つの耕圃に分けて一つを小麦などの冬蒔地,一つを燕麦・豆などの春蒔地,もう一つを休閑地としてそれぞれを三年に一度休ませる三圃制耕作法が行われていたが,休閑地の外に収穫後つぎに播種されるまでの休耕地には,領主をはじめ村人たちの家畜がそれぞれの土地保有高に応じて放牧される共有地となった。農耕地は休閑・休耕の間にこれらの家畜の糞尿によって施肥されて土地生産力を回復した。そのために領主直営地も農民保有地も塀などで囲まれることなく,放牧される家畜が自由に移動出来るように簡単な畦で区切られているだけであったので,その景観から開放耕地と呼ばれ,そうした制度は,三圃制耕作法をも含めて開放耕地制と呼ばれる。このように家畜の放牧と農耕とを組み合わせた三圃制耕作法・開放耕地制の運営のためには,個人の恣意的な作業は許されなかった。その上に耕作のための牛馬の曳く犁隊も農民たちが共同して編成しなければならなかったという事情もあったために,当然に共同耕作制をとらざるを得ずそのための共同体規制が厳しく行われていた。村人たちの耕作も,家畜の放牧・飼料を作るための草刈りも,いずれも村の共同体規制の下で行われており,村の共同体規制と村法とが村人たちを厳しく規制していた。領主たちは村人・領民を支配してゆくのにこの村落共同体規制を利用することも多かったが,しかし村落共同体運営のための村法・村の慣行は,たとえ領主であってもそれに違反することが許されず,村人たちが村落共同体の村法・村の慣行に訴えて領主の不当な恣意に抵抗することもあり得た。封建所領を構成する単位となっていた村には,以上のような村落共同体制が行われていて村人を拘束していたが,また領主であっても無視することの許されない村の慣行が支配していて,村人を領主の不当な恣意から保護していたのである。
ところで,こうした封建制の起源・成立については諸説が行われている。封建制は主従制に恩貸制が結びついて成立した保護制度であるが,恩貸制とは,土地を不完全所有という形で与えるものであり,家臣や従者に土地を恩貸する風習の成立については,メロヴィング=フランクの宮宰カール=マルテル(在任714〜741)がイスラームの優秀な騎兵に対抗するための教会領の一部を教会領のままで騎士領とするという軍制改革を行ったことが大きな契機となったと説かれたこともあったが,もっと一般的に,ローマ時代の教会領の不完全譲与の場合に用いられたプレカリウム,あるいはゲルマンのアントウルスティオーネス宮廷護衛兵やレウデース軍事的従者らに,一代限りで与えられた恩貸地制などにも溯源出来るであろうし,農奴制・荘園制の成立についても,ローマ帝政末のコロナートゥス制,あるいはゲルマン諸地域に見られた自由な農民戦士の従属的農民への一般的な地位低下,ゲルマン的な散村の集村化などが考えられよう。しかし一般的に,中世封建社会の起源をローマに溯源しようとするローマ学派と,それをゲルマン社会に溯源しようとするゲルマン学派との間に基本的な見解の対立が見られる。
【防衛的性格と社会秩序】封建制風習は,中世の全ヨーロッパの全社会階層に行われた一種の保護制度であった。しかし封建制は王と貴族とが統治権を分有することを建前としていたために,治安・秩序が乱れ勝ちであった。その上に,外からは外敵の脅威,すなわち東からマジャール人・北からノルマン人・南からイスラーム教徒などの侵入があったために,上は貴族から下は農民に至るすべての人びとの間に安全と保護を求めて広まった封建制は軍事的・防衛的性格を強くもつこととなった。それぞれの地域の防衛のために築かれた城は,城主である貴族や領主の地域支配の権威を示すシンボルでもあったが,やはり何よりも地域防衛の拠点であった。また11〜12世紀の商業の復活に伴って城の周辺や教会の門前などに発生した都市も,都市住民の安全を守るために城壁をめぐらした。カスルとかブルクという語尾を持つ都市名はそうした城壁を意味するが,こうした城と都市の城壁は,封建制社会が軍事的・防衛的性格を強くもっていたことを雄弁に物語るものである。中世封建時代の戦争は,そうした城,つまり地域防衛の拠点を包囲して降伏させるという城の攻防戦・争奪戦という形をとったが,そうした戦争において活躍する騎士階級は,当時の人びとが強く求めていた地域の安全を防衛してくれる花形的存在であり,貴族を援助する有力な家臣として尊重され,また地域住民を保護する地域領主として尊敬された。騎士たちは戦争に備えてトーナメントなどで武術の腕を磨いていた。また当時の人びとは有力な主君や領主の保護を求める外に,たえず起こり得る社会不安に対して,自らの安全を自らの手で守るという自己防衛の考え方を身につけ,いろいろな自警組織を作っており,危険に際しては大声をあげて犯人を追跡するという義務意識をもっていた。商人や学生たちも旅行する際には団体を組んで道中の盗賊に対処していた。
中世封建には戦乱が多く,社会が極めて不安であったこともあってそれぞれの地域社会は防衛的であると同時に閉鎖的でもあった。それぞれの地域は互いに交流する機会が少なく,互いに自給自足の経済圏を作って分立し独立的にならざるを得なかった。統治権の分有という政治的な事情と並行して地域の社会的・経済的・独立性が顕著であったが,それだけに地域内の開発はよく進み,地域産業や文化において豊かな地方色が発揮されるという利点もあった。また社会秩序もそうした地域社会を単位として保たれていた。中世には一般に祈る者(聖職者),戦う者(戦士),働く者(農民)という職分意識が支配的で,互いにその職分・自分の分際がよく守られ,聖職者・戦士(貴族)・農民という身分的階層関係が長く維持され,中世後期に各国におこった議会も身分制議会の形をとることとなったが,またそれぞれの地域の社会秩序は,そうした身分的・社会的階層関係に基づいて維持されていた。下の身分・階層の者が上の身分・階層の者に反抗することは,結局は一番上の神に反抗することにも連なる悪い行為であるとされ,キリスト教教会も身分的・社会的階層関係の遵守を強く勧めていた。また,11〜12世紀における商業の復活に伴って商工業の中心として興ってきた都市においても,都市自体は王侯貴族から重要な新しい財源として保護され,自治特権を与えられて発展していたが,その内部では,それぞれの商工業の分野で親方・職人・徒弟という厳格な身分制が遵守されていた。そしてそれぞれの都市で組織された商人ギルド,あるいは同業ギルドも親方層によって組織されていて職人らは排除されており,ギルド構成員たる親方層の間で生産と販売が独占され,都市の自治権もギルド構成員たる親方層の間で独占されていた。そして都市の秩序も,親方・職人・徒弟という身分的階層関係を厳格に維持することによって保たれていたのである。
中世封建時代の地域社会における社会秩序を与えるもう一つの支柱は,それぞれの地域社会,あるいは村で行われていたそれぞれの慣行である。先にも触れたように,そうした慣行は村の領主・地域の領主と言えどもそれを無視することが許されぬものであった。封建制社会は長い間に培われてきた地域慣行・村の慣行を大切に遵守してそれを後世に伝えてゆくものであった。慣行は人びとの生活・考え方を拘束するものともなったが,また長い間の経験から生まれたものであった故に,人びとの社会生活を導く指針となり,地域社会に安全と秩序とを与える規範ともなったのである。したがってそうした慣行をもたぬ他所者・無頼の者は,危険視され排除された。しかし封建社会の社会秩序はただ地域社会を単位として維持されただけではなかった。地域と地域との間で,すなわち当該地域を支配していた王侯貴族の間で友好的協定を結ぶ風も見られた。すでにメロヴィング=フランク時代の587年に,分国王グントラムとヒルデベルト2世との間に結ばれたアンドラウの和議の例が見られるが,イギリスでも12世紀のスティーヴン王の内乱中の1148〜1153年の間に,チェスター伯ラナルフとレスター伯ロバートがリンカン司教を介して結んだ協定がある。また,10世紀末中部フランスから始まったと言われる「神の平和」運動も,キリスト教教会が人びとを戦乱の恐怖から救うために,一定期間に限られてはいたがすべての戦闘行為を禁止した運動であり,地域間の戦乱を阻止し地域間の和平を進めたものとして注目される。その点で,王権が異民族征服者王権として極めて強大であったイギリスでは,「王の平和」が強大な王権を背景としてよく行われ,貴族たち同士の係争は国王法廷で決裁されることが多く,地域間の戦乱は比較的避けられた。逆に王権による統轄が見られなかったドイツでは,地域の侯伯権が独立的に成長し,同様な事情のイタリアでも都市国家が分立して相互の間に戦乱が絶えなかった。
【衰退】封建制風習は,内外の戦乱や社会不安から自らを守るためにすべての社会階層の人びとが希求した保護制度として行われたものであったが,12世紀ごろからいろいろな矛盾が露呈してくる。12世紀の商業の復活に伴って貨幣経済とともに地域間商業が盛んになってくると,それまで自給自足を建て前としていた閉鎖的な地域社会にも動きが与えられることになり,また身分的・社会的階層関係と地域慣行の中で秩序と安定を得ていた封建制社会に,身分的・階層的拘束を嫌ってそれを打破しようとする動きも出てきて,封建制社会は大きく動揺してくる。
封建的貴族たちの所領を構成する単位となっていた村(荘園)においては,農奴たちの週賦役によって経営される領主直営地が中心となっており,農奴制こそが荘園体制の核心をなすものであったが,荘園領主(貴族)らは当時の貨幣経済の波に乗ろうとして,領主直営地を販売あるいは貸付けに出し貨幣所得を得ようとし,また不要となった農奴の週賦役を貨幣地代に金納化させようとする。その結果,荘園領主は領主直営地の経営をやめ,もっぱら貨幣地代を収得する地代収得者となる(地代荘園の成立)。他方,週賦役の拘束から解放された農奴たちの中には,領主直営地の販売・貸付けに応じたり,近隣農奴の保有地を併せたりしてその経営規模を拡大してゆく者も現れ,裕福になった者は解放金を払って農奴身分から解放されて富農として社会的地位を高めてゆくようになる。さらにまた,かつての荘園の役人であった者とともに地主化し,仲間の貧農を配下の小作人としてゆくという者も現れた。地域によって富農が貧農を農業労働者として雇傭し資本家的な経営を進めてゆく地域と,富農やもとの役人らが地主化して地主・小作関係を進めてゆく地域とがあるが,いずれにしてもかつての荘園領主(貴族)は経営の前面から後退し,資本家的富農層あるいは地主層が農村の新しい支配者として立ち現れてくることとなり,貴族たちの荘園支配体制が崩れてくる。また封建的なギルド制が支配していた都市においても,ギルド的規制を嫌った職人たちが,ギルド的規制のない自由な農村において自由な生産を興してゆき,荘園制崩壊後に生まれた貧農を労働者として安く雇傭し,都市ギルドの親方層を相手として製品の品質と生産コストの上で競争してゆくこととなる。ギルド的遺制は15〜16世紀の特権ギルド制にまで残るけれども,都市においても封建的ギルド制は新しい農村工業の発展の前に衰退してゆくこととなった。こうして農村・都市の両方において封建的な支配体制の衰退が目立ち,農村あるいは都市を支配してそこから莫大な利益を引き出していた封建貴族層は,経済的に大きな打撃を受けることとなる。
その上に,14〜15世紀になると貴族と従者の間を精神的に強く結びつけていた互いの忠誠心も薄らいでくる。主君たる貴族が忠実な保護を怠り,家臣や従者も忠誠な奉仕を怠り,両者の間に不信が募って,家臣たちの反逆や農民一揆が目立ってくる。14〜15世紀に流行した貨幣知行は,土地を恩貸する代わりに年間定額の貨幣を与えることで臣下の忠誠な奉仕と援助とを契約したものであるが,主従間の関係はかつての忠誠関係から金銭的・契約的関係に代わってくる。そうして結ばれた新封建制あるいは庶子封建制と呼ばれる関係は,忠誠心の全く欠如した封建関係であった。こうして封建貴族層は精神的にも大きな打撃を受けるようになる。
物心両面において大きな打撃を受けた封建的貴族層は14〜15世紀から急速に後退し,新しく地方行政に活躍して社会的地位を上げてきた騎士層・地主層を金銭的契約によってつなぎとめねばならぬという存在になり下り,逆に騎士層・地主層が貴族を左右する存在となってくる。そして封建的貴族層の没落と反比例して,王権が人びとの期待を集めて進展してくる。すなわち王権は,封建的貴族層がそれぞれの地域で行使していた特権を集中して貴族層の基盤を切り崩してゆき,封建的貴族に代わって地方行政に活躍し社会的にも進出してきた騎士層・地主層を王の忠誠な中央・地方の官僚や軍隊指導者に採用して,国家的規模で中央集権を進めてゆくこととなる。こうして封建的貴族層の没落と王権による中央集権が進む中で,なお都市における特権ギルドによる支配,農村における地主制支配という封建的遺制を根強く残してはいたが,王権は,国内市場の統一を願う資本家的市民層の期待を集めてブルジョア的発展を志向する絶対主義王権に発展してゆき,封建制は実質的に終焉してゆくこととなる。