●方形周溝墓 ほうけいしゅうこうぼ
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弥生時代から古墳時代にかけて行われた墓制の一形態。幅約1〜2mの溝を1辺約4〜30mの方形にめぐらして墓域を区画し,その内側に埋葬主体部を有する。平面形態は,[1]四隅のすべてが切れる型,[2]四隅のうち何カ所かが切れる型,[3]4辺すべてをめぐる型,[4]4辺のうち1辺もしくは2辺を欠く型などがある。封土が確実に把握された例は少ないが,溝を掘った際の排土を中央に盛土して約10cm〜1mほどの封土を有するものや,丘陵などの自然地形を利用した封土的構造をもつものなどがある。多くの方形周溝墓に主体部が確認されないことも封土の存在を想定させ,これは流出した封土中に埋葬施設があったためではないかとも考えられている。埋葬施設は土壙が一般的であるが,そのほか木棺・石棺・土器棺などもあり,その数は1主体部のものから大阪府瓜生堂2号周溝墓のように18主体部を有するものまである。また内側の方台部ではなく周溝内の土壙に埋葬する例もあり,とくに,四隅の切れる方形周溝墓は溝自体が埋葬施設であったのではないかとする説もある。埋葬主体部には土器・玉・金属器・鏡・石製品などを副葬するものがあり,福岡県藤崎6号周溝墓からは前期古墳に同笵鏡が認められる三角縁二神二車馬鏡が出土している。溝中および方台肩部付近からは底部穿孔土器と呼ばれる焼成後故意に底部を穿孔した壺などが出土する例もあり,葬送儀礼にかかわりのあるものと考えられている。しかしこのように副葬品を出土するものは稀であり,土器の出土すらわずかであるのが一般的である。方形周溝墓は,低地上・自然堤防上・台地上・山丘尾根上などに立地し,多くは台地上に存在する。地域・時期によっても異なり,弥生時代には低地上に営まれるものが多く古墳時代では山丘尾根上が多い。その在り方もさまざまなものがあり,集落内に数基が存在する例や集落から離れて群在する例などがある。
方形周溝墓の最古のものは,弥生時代前期後半の大阪府池上遺跡・同府四ッ池遺跡・同府東奈良遺跡など大阪府下に認められる。中期には各地に散見するようになり,後期に至ると関東地方など東日本に盛んに造営されるようになる。弥生時代末から古墳時代初頭にかけては東日本・九州地方に集中し,畿内では急激に減少する。その終末は大阪府宮ノ前遺跡で埴輪などを伴うものが見られることから,畿内でもその一部が古墳時代後期まで存続しており,関東地方では方形周溝状遺構が5〜6世紀まで認められる。
方形周溝墓という名称は,1964年大場磐雄が東京都宇都木向原遺跡において提唱し,その後類例の増加に伴いこの種の遺構に対する理解も深まってきた。方形周溝墓は,水稲耕作・畑作の普及に伴い階級差が生じた結果現れた墓制と考えられるが,先進地域と後進地域ではその在り方にやや差があり,地域によって性格を若干異にする。たとえば,畿内においては弥生時代の有力世帯の家族墓とされているのに対し,関東地方では高塚古墳と時期的に併行することから,前期古墳の埓外にあった首長層やその成員によるものとする説が唱えられている。また,最近関東地方を中心として方形周溝墓と一線を画すべき前方後方形周溝墓の発見が相次いでおり,今後これらを含めた研究の深化が必須であり残された課題は多い。
〔参考文献〕大塚初重・井上裕弘「方形周溝墓の研究」『駿台史学24』,1969
原始墓制研究会『原始墓制研究』1〜5,1973〜1977
山岸良二『方形周溝墓』1981,ニュー・サイエンス社