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●法家 ほうか

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 戦国諸子百家の一つ。君主の国家支配は,法と刑によって行わるべきことを説く政治思想。戦国時代に興り,秦の始皇帝の中央集権制度の政治原則となった。漢代以降も,道家や儒家の政治論のなかに取り入れられ,専制君主による官僚主義的政治に重要な役割を演じた。

 春秋時代中ごろ貴族政治が行き詰り,君主を中心とした政治改革が試みられるようになると,諸侯の間に成文法がつくられはじめた(子産の改革)。この時期の法は刑罰を主としたものであり,刑書・刑鼎・竹刑などと呼ばれた。

【変法政治】戦国時代前期,魏の文侯に仕えたリカイ※注1※は,“富国強兵”策として〈地力を尽くす教え〉を以て農政を改革し,〈平糴法〉を以て物価の調整を行うと同時に,『法経』六編をつくったという(リカイ※注1※は李克と同一人物だと言われるが,しかし李克は儒家に属する別人との説もある)。それは盗・賊・囚・捕・雑・具に分かれていたらしいが内容は不明である。魏におこった法家的政治は,魏から楚に移った呉起に受け継がれ,〈呉起の変法〉と称される楚の国政改革が行われた。その改革は貴族の勢力(私門)を抑え,君臣の関係を明らかにし,軍制を強化することにあったらしいが,詳しいことはわからない。戦国中期,魏から秦に移り,孝公に仕えた衛鞅(商鞅)は公族私門の力を排して徹底した軍功爵制を施行し,爵位秩禄官職の制を定め,郡県制を布き,君臣関係を正し,法を厳にして信賞必罰主義を以て耕戦の民を養い,什伍制を組織し民を連座制によって取り締った。これは法家による変法政治の典型と考えられるもので,秦の苛法はこの系統を引いて発展したことが近年湖北省雲夢県の秦末古墓から出土した秦律竹簡によって確かめられている。始皇帝に仕えて封建制を廃し,郡県制による中央集権官僚政治を実現した丞相李斯は,秦の変法政治を完成した法家官僚である。

韓非子】法家の思想を集大成したのは,韓の公族韓非である。韓非李斯とともに荀子の門に学んだという。その著書が始皇帝に認められ秦に仕えたが,李斯に忌まれて殺されたと伝えられる。韓非は君主中心の中央集権政治(郡県制)を論じ,宗族主義的な貴族政治体制(礼)を排斥し,法による一元的支配を主張した。その君主は絶対的で,これを批判するものを認めず,道徳と政治とを分離した点においてマキャベリズムとよく比較される。韓非によると,法をつくるものは君主,法を守る者は官僚,法に服従する者は民であるという。司馬遷によると,韓非は〈刑名・法術の学を嘉みて,その帰は黄老に本づく〉ものとされる。韓非は儒家の門より出,道家の無為思想や愚民政策を採用し,墨家の君主の絶対化や,申不害の〈術〉,慎到の〈勢〉などの論をもとり入れ,従来の法家思想を集大成したのである。とくに法は〈術〉と〈勢〉によって行わるべしとした考えは,専制君主政治と法を結合したものとして名高い。〈術〉とは韓の申不害が説いたと言われ,形名・参同を以て臣下を操従する方法であり,〈勢〉とは慎到の主張したもので,君主の勢位によって臣下を制すことである。すなわち君主は権勢の位に立って独断することにより,法の支配が実現すると考えたのである。韓非はこれを道家の無為の道と合致せしめ人は利を求めるものであるから,信賞必罰を以てすれば民は君主のために死力を尽くすようになり,無為にして治めることができるという。

 法家の書としては『韓非子』20巻,『商君書』5巻が名高いが,後者は漢代になってつくられた部分が多いと言われている。その他『管子』などにも斉の法家の論がうかがわれる。

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