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●弁証法 べんしょうほう

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ディアレクティク」の訳語の一つ。語源はギリシア語の「ディアレゲスタイ」(「対話する」「問答する」)。「ディアレクティク」は哲学史上,はなはだ多義的に用いられている。「弁証法」という訳語は,ふつうヘーゲル以降の哲学者たちのそれにあてられているが,それぞれの「弁証法」がいかなる意味において,共通に「弁証法」であるかをいうことはきわめて困難である。「ディアレクティク」という語は,カント哲学においては「弁証論」と訳され,プラトン哲学においては「問答法」と訳されている。カントによれば,われわれの認識の対象は現象に限られる。認識能力の限界を超えて,形而上学的世界(仮象)について論証しようとすれば,相互に矛盾する命題がともに成立するような状況が生じる。このような状況をさして,カントは理性が「ディアレクティク」に陥ると呼ぶ。「弁証論」は論証の対象たり得ないものについての,相互に対立する立場から行われる推論である。ヘーゲルによれば,カントは矛盾を乗り越えて,真の意味の理性的思考の立場に昇ろうとしなかった。われわれが認識する事物は,われわれに対して現象であるばかりでなく,それ自身単なる現象にすぎない。現象はその存在根拠を,絶対者の理念(理性概念)のうちにもつ。絶対者の理念こそが,すべての現象を規定し,動かしている。現象を真の姿において認識するということは,絶対者との関連において把握することによってのみ可能となる。そこにおいて思考が矛盾に陥るのであれば,「ディアレクティク」によってこそ,「真なるもの」がとらえられることになる。哲学は「真なるもの」の知をめざすものであり,すべてを組織的・統一的にみる見方を得ようとするものであるから,哲学の論理は,「弁証法」であるほかはない。「弁証法」によってのみ,すべてが理性的に把握されるのであるから,認識の対象である全存在も,矛盾を超えて動くという弁証法的構造をなしていることになる。弁証法は存在の運動(発展)の論理でもある。こうしてヘーゲルにおいては,あらゆる論理的(弁証法的)なものが,それ自身に即してある(それ自身にとどまる→即自)段階から,それ自身と反対のもの(対自)へと移行する段階をへて,反対のものであるというあり方を止めて,高次のそれ自身として一体性を回復する段階(即旦対自)を通って発展するとされる。