●ペロポンネソス戦争 ペロポンネソスせんそう
ヨーロッパ ギリシャ共和国 BC431
前431〜前404年 ペルシア戦争ののち,アテナイとスパルタはギリシアの覇権をかけて2度の大戦を戦った。前457年アテナイは,メガラとコリントスの紛争に乗じてメガラを自陣に引き入れ,コリントスに脅威を与えた。また同じころ,スパルタに対抗してメッセニア難民をコリント湾北西岸のナウパクトス(Naupaktos)に植民させ,アイギナを攻囲して降伏させた。スパルタはアテナイ軍をタナグラに破ったが,アテナイはボイオティアを支配下に置いた。しかし,こののちアテナイの後退が始まる。エジプト遠征の大失敗に続いてデロス同盟内部にも不穏な動きがおこり,アテナイは膨張政策の転換を余儀なくされた。前451年の五年休戦条約が終わると,前447年のボイオティア解放,翌年のエウボイア離反,メガラのペロポンネソス同盟復帰と不幸な事件が相次ぎ,スパルタ軍がアッティカに侵入するに及んで,アテナイは「三十年和約」を受諾し,アイギナを除くすべての占領地を返還することに同意した(前446)。この一連の事件は歴史上“第1次ペロポンネソス戦争”と呼ばれる。しかしペロポンネソス戦争は,一般には前431年に始まり,前404年のアテナイ降伏で終わった“第2次ペロポンネソス戦争”を示す。この戦争について述べるとき,今日でもトゥキディデスが唯一信頼するに足る典拠である。彼によれば,戦争の真の原因はアテナイ権力の伸長と,それに対するスパルタの恐怖であった。経済史的視点をもたなかったわけではないが,彼はそれを重視しなかった。彼が大きな関心を抱いたのは,人間の本性や権力の本質についての考察であった。戦争勃発に先立つ数年間にアテナイの三十年和約違反がしきりに非難された。エピダウロスをめぐる母都市コリントスと植民市ケルキュラ(コルフ)の紛争にアテナイはケルキュラと同盟を結び,コリントス艦隊と直接戦闘を交えた。また,北方におけるコリントスの植民市ポテイダイアが帝国から離反することを恐れて城壁の撤去などを要求し,拒絶されたので攻城戦をしかけた。さらにペロポンネソス同盟の一員であるメガラをアッティカと帝国の港湾から閉め出した(メガラ禁令)。しかしトゥキディデスにとって,これらはペロポンネソス陣営の開戦の“口実”にすぎなかった。アテナイから侵略されたと主張するコリントス,メガラ,アイギナは同盟会議を通じてスパルタに圧力をかけ,開戦を決意させた。それはまた,スパルタ国内の好戦派の望むところでもあった。この戦争は“アルキダモス戦争”(前431〜前421),“シチリア遠征”(前415〜前413),“デケレイア戦争”および“イオニア戦争”(前413〜前404)の三つの時期に区分できる。アルキダモス戦争は,スパルタ王アルキダモスがしばしばアッティカに侵入したのでこの名がある。スパルタ軍の伝統的戦法は,敵の領土に侵入して耕地を荒らし,それを阻止するために,出撃してきた敵軍に決戦を挑んでこれを討つというものであった。しかしアテナイは,ペリクレスの指導のもとで耕地を棄て,全市民を城壁内に避難させて籠城した。アテナイとペイライエウス(ピレウス)を結ぶ長城壁が海上からの物資補給を保証してくれるので,アテナイは長期戦に耐えることができる。軍資金も十分に蓄えられている。他方,ペロポンネソス同盟軍は有効な攻城手段をもたず,軍資金も乏しく,各ポリスの都合で長期の派兵はできない。しかも敵のアッティカ侵入中にアテナイ海軍は,ペロポンネソス半島沿岸を急襲する。このようなペリクレスの戦略は基本的には正しかった。しかし,狭い市内への過度の人口集中が疫病流行による犠牲者を増加させたことは彼の誤算であった(前430〜前427)。そして彼もその誤算の犠牲者の1人となった。ペリクレスの死後,市民を適切に指導する政治家が現れなかったことが,アテナイ敗北の主因の一つである。クレオンなどの民衆指導者は,アテナイの潜在力を有効に使うことができなかったのである。長期にわたる厳しい戦争は各ポリス内の党争を激化させ,市民のモラルを著しく低下させた。ケルキュラ内乱を描写するトゥキディデスはそれを深く認識している。ミュティレーネの反乱(前428〜前427)に対するアテナイの苛酷な報復や,アテナイの同盟国プラタイアに対するスパルタの同様の処置は,この戦争が人間の心に与えた悪影響を例証する。前425年,メッセニアの西岸ピュロスで幸運な戦果を上げたアテナイは,クレオンの意見に従って有利な和約を拒んだ。窮地に立ったスパルタを救ったのはブラシダスであった。彼は,手兵を率いてアテナイからメガラを解放したのち,北上を続けてトラキア方面に進出し,マケドニアの援助のもとにいくつかの都市を奪取した。北方の要衝アンフィポリスもそのなかに含まれていた(前424)。同じころアテナイは,ボイオティア侵攻を試みてデリオンに大敗した。一年休戦条約が結ばれたが,翌年クレオンはアンフィポリス奪回をはかって敗死し,ブラシダスも戦死した(前422)。両陣営の好戦派のチャンピオンがいなくなったので,“ニキアスの和約”が結ばれ,占領地の相互返還と50年間の平和が約束された(前421)。しかし和約は,ペロポンネソス同盟に分裂をもたらした。コリントスとボイオティアは異議を唱えてスパルタから離れ,この機に乗じて,仇敵アルゴスが反スパルタ同盟の結成を画策した。アテナイの野心家アルキビアデスの暗躍で,エリスとマンティネイアを巻き込んだ同盟が成立し,マンティネイア会戦がおこったが,スパルタの自信回復に貢献しただけであった(前418年)。アテナイは前416年,エーゲ海の小島メロスを攻め全滅させた。この経緯はトゥキディデスの『メロス対話』に詳述されている。拡大しつづけない権力は後退するという論理が,アテナイをそのような行為に走らせたのである。この論理に駆り立てられたアテナイは,さらに大きな冒険を企てた。アルキビアデスの提案したシチリア遠征は,成功の暁にはギリシアにおけるアテナイの立場を圧倒的に有利にしてくれるはずであった。アルキビアデスとニキアスに率いられて史上最強の艦隊がペイライエウスを出航した。のちにデモステネスの率いる増援部隊が派遣された。しかしアテナイ市民は,2度とそれらの勇姿を眺めることはできなかった。前413年に遠征軍は全滅した。アテナイ国内の政争がアルキビアデスを敵陣営に走らせたことと,将軍ニキアスの無能力が原因であった。アルキビアデスの忠告によって,シュラクサイ(シラクサ)に援軍を送ったスパルタは,やはり彼の作戦を受け入れてアッティカのデケレイアを占領し,砦を築いた。これによって戦争の様相が一変した。砦に駐留するスパルタ軍は,いつでもアッティカの耕地を荒らすことができた。エウボイアとアテナイを結ぶ陸路を庶断することも可能になった。海上におけるアテナイの優位は消滅した。艦船を建造したが,もはや優秀な漕手を確保できなかったからである。ペルシアの資金援助を受けて増強されたペロポンネソス艦隊が,エーゲ海に進出してきた。服属国は次々と離反したが,アテナイにはそれらを鎮圧する余力はほとんどなかった。今や生命線である黒海沿岸や,エジプトからの穀物輸送路が脅かされ始めた。党争が激化し,寡頭派革命がおこって一時“400人体制”がアテナイを支配した(前411)。この危機にアテナイを救ったのは,アルキビアデスであった。彼は再建された艦隊を率いてヘレスポントスを平定し,穀物輸送路を確保するとともに,服属国の反乱の鎮圧に成功した。しかし束の間の勝利に酔ったアテナイは,再びアルキビアデスを裏切り,前406年のアルギヌサイ海戦の勝利を有効に利用することに失敗した。民会は講和に反対したばかりか,味方の救助を怠った罪で指揮官たちを処刑したのである。このようなアテナイには,もはや戦争続行の力はなかった。前405年,ヘレスポントスのアイゴスポタモイで大敗して海軍力を失い,海陸を封鎖されたアテナイは,前404年4月に降伏した。アテナイ帝国は崩壊し,ギリシア統一は70年遅れることになった。“ポリスに自治を与えよ”というスローガンで始まった戦争であったが,戦後もスパルタの専横の前に完全な自治がポリスに与えられることはなかった。ギリシアは引き続き長い対立と抗争の時代を迎え,しだいに資源を消耗していった。ペルシアの干渉や傭兵の横行にみられるポリス崩壊の兆しが,ギリシアに一層の混乱をもたらすことになるのである。
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