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●ベルリン封鎖 ベルリンふうさ

ヨーロッパ フランス共和国 AD1948 フランス共和国第四共和政

 第二次世界大戦後の1948年6月24日から翌1949年5月12日まで,ソヴィエトがアメリカ・イギリス・フランス3国の占領する西ベルリン地区と西ドイツとのあいだの陸水路をすべて遮断したことによって高まった国際的緊張。

通貨改革】1945年8月2日に決定されたポツダム協定によって,第二次世界大戦後のドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4国に分割占領され,4国代表の構成する連合国管理理事会のもとに統治されたが,ソ連占領地域にある首都ベルリンはさらに同一の4国の分割占領下に置かれ,4国の軍司令官による共同管理地区になった。しかし,西方3国はドイツの管理方針をめぐりソ連と対立し,西側が3国の占領地の統合をめざす政策を打ち出したのに抗議し,1948年3月20日,ソヴィエト占領軍最高司令官兼軍政長官ソコロフスキー連合国管理理事会から脱退した。ついで同年6月18日,西側3国が経済健全化の必須の前提となる通貨改革を3国占領地区で実施すると宣言した。それに対して,ソヴィエトも東側地区での通貨改革を公示するとともに,ベルリン西側地区への電力と石炭の供給停止に踏み切った。当時東ベルリンに1万8000,東地区に30万のソヴィエト軍が駐屯していたのに対して,西ベルリンにいた西側兵力は6,500にすぎなかった。そこで西側の駐屯軍や軍政府に対してのみ,必要とあれば食糧や燃料を空輸することは可能であったが,民間住民への補給は大問題であった。西側3国は1945年7月に西ベルリンの12の区を占領して以来,200万人の住民に食糧を供給する責任を負っていたからである。封鎖が全面的に開始されたとき,西ベルリンには6週間分の食糧と燃料が備蓄されていただけであったから,西側3国が封鎖に対抗する決定を下すことは容易でなかった。

【空輸】ソ連の挑戦に対する対抗措置をとることを躊躇していたアメリカ政府を説得したのは,まもなく西べルリン市長に就任するはずのロイターの強い支持を受けていたアメリカ占領軍最高司令官兼軍政長官ルシアス=クレイ将軍であった。6月24日,ソ連軍政長官はベルリンの連合軍管理機関の消滅を宣言し,ベルリンへの鉄道輸送を遮断した。ソ連によるベルリン封鎖は西側の権利を防衛する断固たる決意の有無を問う試金石となった。6月28日,西ベルリンの封鎖に対抗し,アメリカ当局は「空輸」作戦を発表した。冬のあいだ西ベルリンに補給をつづけることができるかどうか危惧があったが,空輸の増大によって打破した。空輸量は冬のあいだ1日平均5,500tにのぼった。石炭が大部分で,最高1万3000t近くを運んだ。春になると,西ベルリンが通常移入していた1日平均8,000tの空輸に成功し,連日ほぼ1,400機が着陸した。封鎖解除の交渉は懸命につづけられた。1949年3月4日,ソヴィエト外相がモロトフからヴィシンスキーに交替したあと交渉が進展し,5月5日,ベルリンと東地区のいっさいの交通制限を撤廃する協定が調印され,封鎖は5月12日に解除された。1948年〜49年の冬,西ドイツとアメリカのあいだに強い連帯意識が固められた。空の架橋を貫徹した中心はアメリカ政府とクレイ将軍であり,空輸物資は主としてアメリカからのものであった。この作戦で79人のパイロットと地上職員の犠牲者が出た。テンペルホーフ空港に記念碑がある。西側はこのようにしてベルリンを守ることに成功したが,そのあいだにドイツの東西分裂は促進され,1949年5月8日に西ドイツの憲法制定会議がドイツ連邦共和国基本法を可決したのに対して,東ドイツは同年10月7日にドイツ民主共和国の成立を宣言した。

〔参考文献〕フレミング,小幡操訳『現代国際政治史』II,1967,岩波書店

グローセル,山本尤ほか訳『ドイツ総決算』1981,社会思想社

Ryder,高橋通敏訳『ドイツ政治・外交史』1983,新有堂