●ベルリン会議 ベルリンかいぎ
AD1878
1878年6〜7月 ロシア−トルコ戦争の結果生じてきた国際紛争を,ビスマルクが列国をベルリンに召集して解決しようとした会議。【サン=ステファノ条約】イギリスはクリミア戦争(1853〜56)のころより,ロシアがオスマン=トルコを侵し進出してくるのを,武力的手段を行使しても阻止しようとする決意をもち,トルコ保全策をとっていた。1877年に始まった露土戦争は,1878年3月3日のサン=ステファノ条約の成立をもって終わったが,この条約により,以前から独立を宣言していたセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立が認められ,ロシアの後援を得た大ブルガリアを建設するものであった。これはロシアの勢力を大きく南下させることになるので,イギリスは強く反対し,ビスマルクが仲裁して国際会議をもつように働きかけ,ビスマルクは5月30日のイギリス・ロシア秘密覚書,6月4日のイギリス−トルコ同盟,6月6日のイギリス−オーストリア協定の働きをみた上で,6月3日,クリミア戦争のパリ条約調印国を発し,調停を開始した。
【ビスマルクの立場】1871年,普仏戦争中にドイツ帝国を成立させたビスマルクは,以後,武装せる平和を保ち,戦争を避け,誕生したドイツの育成を旨とした。それは,大きな国際的対立を利用し,列強とのあいだに特定の関係をもたず,等距離外交をとりながら,すべての国にドイツを必要と思わせることにあった。彼がベルリン会議にさいして,「公正な仲裁人」と称したのはこのためである。具体的にいえば,イギリスとロシアのあいだの対立,ロシアとオーストリア間の緊張関係を利用し,しかもその緊張を消し去ってしまうのではなく,調停者を必要とする状況を〈公正〉につくりだし,ドイツに潜在的覇権をもたせておくことである。これによって,彼はヨーロッパの宰相の立場に立ち得るのであった。
【会議】6月13日に開会したベルリン会議は,7月13日に閉会したが,1カ月のあいだに20回の会議を重ねた。ビスマルクが議長で,イギリスのディズレーリ・ソールズベリー,ロシアのゴルチャコフ,オーストリアのアンドラーシ,ドイツのホーエンローエらをはじめ,フランス・イタリア・トルコの計7カ国の代表が討議を重ね難行した。最大の問題はブルガリア問題で,イギリスはロシアに強く反対し,危機的とさえなったが,ビスマルクは「中立的」に斡旋して,危機を回避した。また,ボスニア−ヘルツェゴヴィナ問題,ギリシア−トルコ領土問題も難問であった。
【条約】7月13日に調印されたべルリン条約では,サン=ステファノ条約は大修正を受け,ブルガリアはトルコに対して貢納する半独立国として認められたが,領土はサン=ステファノ条約に比し半分以下となり,バルカン山脈以北に限定された。セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立は認められたが,それぞれ,領土を縮小され,モンテネグロは3分の1となった。ボスニア,ヘルツェゴヴィナはイギリスの支援を得て,トルコ主権下に置かれながら,行政権はオーストリアがもつことになった。ロシアはベッサラビア,アルダハンなどを得た。ドナウ川航行に関しては,パリ条約(1871)などの原則が確認された。トルコ−ギリシア領土問題については,両国で協議し,列国の調停権を保留した。
【結果】ロシアは露土戦争で得た利益を大きく失い,南下政策が後退し,トルコは領土を失って分解が進んだのに対し,オーストリアは得るところが大きく,イギリスはロシアの意図を抑えて外交的勝利を得た。ビスマルクは「公正な仲裁人」と称しながら三帝同盟締結国としてのロシアの期待を裏切り,その南下政策を失敗させるような調停を行ったので,ロシアは失望し,三帝同盟は事実上失われ,ロシアはドイツと対立的なフランスに急速に接近しはじめた。