●ペルシア戦争 ペルシアせんそう
ヨーロッパ ギリシャ共和国 BC
前5世紀初頭,ペルシア帝国の大遠征軍をギリシア軍が撃退した戦争。【発端】前6世紀後半,西南アジアでは強大なペルシア帝国が成立し,西方でエーゲ海を中心に活躍するギリシア人の世界と,利害が衝突するようになった。とりわけ小アジアの西岸部,イオニアを中心とする地域のギリシア人の諸都市は,ペルシアに征服され,傀儡(かいらい)政権である僭主政を強制され,兵役や貢税をも課された。たまたま,ミレトスの僭主アリスタゴラスは,個人的な事情から反乱を計画し,アテナイなどの支援をも得て,小アジアにおけるペルシアの属州首都サルディスを攻撃するにいたった(前499)。この「イオニア反乱」は数年間で鎮定されたが,大王ダレイオス1世は,ギリシア本土のアテナイおよびエレトリアがイオニア反乱に援軍を派したことを怒り,本土への遠征を決意した。
【第1回遠征】ダレイオス王の命により女婿マルドニオスが指揮して,前492年,海陸両軍でイオニア,ヘレスポントスをへてトラキア沿岸部を平定したが,海軍がアトス岬で暴風のため大破し,目的を果たさずに引き返した。
【第2回遠征】ダレイオスはマルドニオスに代えて,ダティスとアルタフェルネスを指揮官に任じ,前490年に派兵。このときは,全兵員が艦隊でキュクラデス諸島の一部を征服しつつ西進し,まずエウボイア島に上陸してエレトリアを陥落させ,ついでアッティカ東岸のマラトン平原に上陸した。しかしアテナイの将軍ミルティアデスの戦略と果敢な重装歩兵隊により撃退されたため,次には海上からアテナイを破ろうと艦隊をまわしたが,アテナイ軍は引き返して守備したため,断念して小アジアへ帰った。史上に有名となるマラトンの戦いでは,スパルタからの援軍はまにあわず,隣国プラタイアから小数の援軍が参加しただけであった。
【第3回遠征】ダレイオスの死後,子のクセルクセス1世が即位し(前485),エジプトやバビロニアの反乱を鎮定したのちに,ギリシア遠征に着手。アテナイでは戦略家テミストクレスが,ペルシアとの決戦に海軍が必要だと洞察して,ペイライエウス港の建設や大艦隊の新設を断行していた。また前481年にはアテナイやスパルタなどの諸ポリスが,ペルシアに対抗する同盟を結成し,古来ギリシア最強国と認められていたスパルタが海陸両軍の指揮権を握ることになった。前480年,春クセルクセス王自身が陸海両軍を率いて小アジアを発ち,トラキア沿岸を通ってギリシア本土へ南下。ギリシア側は,陸上ではテルモピュライの隘路(あいろ)で,海上ではアルテミシオン岬の沖で,これを阻止しようとしたが,前者でスパルタ王レオニダスの指揮するスパルタ兵300人が玉砕して突破され,海軍も防ぎきれず,サラミス湾へ退いた。アテナイではテミストクレスの戦略に従い,婦女子や老人をサラミス島その他へ避難させ,兵役年齢にある者は全員が乗船し,ペルシア艦隊を狭いサラミス湾に誘い込んで決戦(サラミス海戦)して大勝した。
この敗北をみてクセルクセスは急きょ帰国するが,ペルシア陸軍はマルドニオスに指揮され,テッサリアに退いて越冬し,前479年春,南下して再度アッティカを荒掠したが,ボイオティア南部のプラタイアの野で,スパルタの摂政パウサニアスの指揮するギリシア軍と決戦(プラタイアの戦い)して大敗。同じころ,ギリシア海軍はイオニアのミュカレ岬に上陸して,陸戦でペルシア海兵を全滅させ,これによりイオニア諸市は自由を回復した。
【結果】ギリシア軍は前479年の決戦で,ペルシア軍をギリシア本土やエーゲ海から撃退したが,ペルシアの勢力はいぜんとして小アジア内部や地中海東岸部で強大であった。これに対抗するため,前477年,アテナイを中心にデロス同盟が結成され,以後も地中海東部の各地で間欠的に戦闘が行われていた。前449年,アテナイ人カリアスがペルシアの首都へ派遣されて和約を結び,両国の勢力範囲を定め,不可侵を約す。これにより両国間の戦争は正式に終結したことになる。