●ペルシア
アジア イラン・イスラム共和国 AD
イランの古い呼称。古代イランの地方名パールス,またはパールサに由来する。この地方を中心にアケメネス朝,ササン朝など大帝国が形成され,政治・文化が大いに栄えたため,この地方名がそのままヨーロッパ人に帝国全域をさすものと考えられるようになった。ペルシア,のちにイランと改称された地域に成立したおもな王朝は,[1]アケメネス朝ペルシア,[2]パルティア,[3]ササン朝ペルシア,[4]サファビー朝,[5]アフシャール朝,[6]ゼンド朝,[7]カジャール朝,[8]パフレビー朝,などである。【アケメネス朝ペルシア】この地域に初めて建国したのはメディアであるが,この支配下にあったアケメネス朝ペルシアは,キュロス2世(Kyros, 前600ごろ〜前530)のとき独立し大いに発展した。前550年,メディアを,前546年,リディアを滅ぼして小アジアを支配下に置き,前538年にはバビロンを占領して,捕えられていたユダヤ人を解放した。こうしてエジプトを除くオリエントの世界は,キロス2世によって征服されたが,彼は征服地に対して,その地の宗教をはじめ政治的自治を認めようとする寛大な政治姿勢をとったため,帝国はよく治まり国の基礎が確立された。二代目カンビュセス2世(前530〜前522)は,前525年,エジプトを破り支配下に置くことに成功した。彼の死後,国内は一時混乱し反乱がおこったが,それらを鎮圧し収拾したのがダレイオス1世(在位前522〜前486)である。彼はサトラップ制を実施し,「王の目・王の耳」を設置するなど優れた政治力を示し,アケメネス朝の最盛期を現出した。また対外的にはギリシアと戦争(ペルシア戦争)をおこしたが,この遠征は失敗に終わった。ついでクセルクス1世(在位前486〜前465)・アルタクセルクセス1世(在位前465〜前424)のときには,政治は傾き発展は止まった。ただ文化については東西の交流がすすんだ。以後,国王はその地位をめぐる争いに巻き込まれ政情は不安定となり,しだいに衰退していった。その間,対ギリシア政策は黄金を使いながらギリシア国内に内紛をおこさせ,それがペルシアに有利になるよう操作した。前338年,即位したダレイオス3世(在位前338〜前330)は,帝国の再建をはかろうとしたが,前331年,ガウガメラの戦いでアレクサンドロス大王に敗れ,翌年暗殺されアケメネス朝は滅亡した。
【ヘレニズム時代】アレクサンドロス大王は,自らアケメネス朝の正統な後継者としてペルシアの風俗・習慣を採用し世界支配に乗り出した。彼はマケドニア人とペルシア人の女性を集団結婚させ,軍隊も再編して彼らを対等なものとして扱った。こうして,アレクサンドロス大王の描く世界帝国建設のための征服がすすめられようとしたときに,彼は病没した。彼の死は彼の描く世界征服の計画のすベてを挫折させた。すなわち,彼の後継者がいないマケドニアでは統一が維持できず,最終的には,アンティゴノス朝(マケドニア)・プトレマイオス朝(エジプト)・セレウコス朝(シリア)の三つに分裂した。イランを併合し広大な領土をもったセレウコスは,東方のインド,マウリア朝と和睦した後,西方のアンティゴノス朝打倒にむかった。前301年,イプソスの戦いでシリア,北メソポタミアを獲得した後,各地に多くのギリシア都市を建設し,これらの積極的な支持のもとに発展した。しかし多くの民族を抱えた広大な領域をもつセレウコス朝は,一方では,分裂の危機をつねにもっていたともいえる。すなわちパルティア・バクトリアの独立を許し,前189年にローマに敗れてからは,しだいに衰退していった。前129年,アンティオコス7世がパルティアと戦って敗死,残りも前64/63年,ローマのポンペイウスに敗れてセレウコス朝は滅びた。
【パルティア】セレウコス朝を破ったパルティアは,それまでの他の国のように中央集権的な統治体制ではなく,封建的な統治体制をとり,地方の諸侯が統治した。パルティア帝国の封建的・地方分権的な統治体制は,東(バクトリア)と西(ローマ)からの脅威に対して統一のとれた積極的な対応をとることを困難にした。ローマとの対立もパルティアから望んだのではなく,ローマがセレウコス朝の領土を手に入れようとしたため引き起こされた対立であった。この対立・抗争はパルティアを疲弊させ,さらに新興国ササン朝ペルシアに,前226年クテシフォンを奪われ,パルティアは滅亡した。
【ササン朝ペルシア】パルティアを倒したアルダシール1世(在位226〜241)の後.継いだシャプール1世(在位?〜272)はローマを破り,自ら〈イラン人および非イラン人の諸王の王〉という称号を用い,広大な領土はパルティアとは違って強大な軍事力を背景に,役人に治めさせる中央集権体制を整えた。一方,ローマがキリスト教を承認し,周辺のキリスト教国がローマを支持するようになると,ササン朝周辺の非キリスト教国のなかには,キリスト教に改宗する国も現われた。このような状況のなかで,ササン朝はますますゾロアスター教の信仰を強くしたために,キリスト教国ローマとの対決は避けられなかった。抗争は337年に始まったが,当時東方にはフン族が存在し,これを牽制しながら続けられた。5世紀になると王位継承をめぐる混乱,ローマの圧迫,東部国境の遊牧民エフタルとの抗争などが重なり,一時的ではあるが衰微した。このササン朝を再興し最盛期を現出したのがホスロー1世(在位531〜579)である。東ローマ皇帝ユスティニアヌス(在位527〜565)と争ってアンチオキアを攻略したほかに,突厥と同盟を結んでエフタル族を討滅した(566〜567)。また文化面でも,ペルシア文化に東西の諸文化の要素を加えるなど,彼の治世の時代は政治・文化両面に大いに栄えた。ホスロー1世の死後,東ローマ帝国との抗争が再燃し,両国ともに疲弊したが,さらにアラビア半島に台頭したイスラーム勢力との対立も迫られた。その結果,641/642年,ニハーヴァンドの戦いで,正統カリフ時代の二代目ウマル(591?〜644)に敗れ,651年,ササン朝最後の皇帝ヤズデゲルド3世が,メルヴ附近で暗殺されて名実ともに滅亡した。
【サファビー朝】ササン朝の滅亡後,この地域にはイスラーム勢力が進出し,ウマイア朝(661〜750),アッバース朝(750〜1258)が興亡し,さらにターヒル朝,サッファール朝,ついでサーマン朝が成立した。この間イランにはシーア派が浸透し,イラン文化が復興した。またセルジューク朝(1038〜1194)は地中海にまで領土をひろげ,十字軍の要因をつくるとともに,国内では文化が栄え名宰相ニザーム=アル=ムルク(1017〜92)・詩人ウマル=ハイヤーム(1048〜1131)などが輩出した。13世紀にはモンゴル族が活躍し,チンギス=ハンの孫フラグ(1218〜65)が1258年にアッバース朝を滅ぼして,イル=ハン国を樹立するとともに,イランの文学・土木・建築・美術を奨励した。イル=ハン国の滅亡後,イランには1502年にサファビー朝(1502〜1736)が成立し,それまでのトルコ系民族の支配から脱した。この王朝はシーア派を国教とし,オスマン=トルコ抗争を繰り返したが,他方,東北国境に侵入したウズベク族とも戦わねばならず,しだいに衰退し,1722年,アフガン族の攻略によって滅びた。なお王統は1736年まで続いた。
【アフシャル朝・ゼンド朝】前者はナーディル=シャー,後者はカリム=ハンのそれぞれの人格と政治力に負うところが大きく,彼らの死とともに両王朝は衰退した。
【カジャール朝】ゼンド朝の混乱のなかから政権を樹立したカジャール朝の時期は,欧米諸国が帝国主義的進出を盛んにしているときであり,カジャール朝もその動きに巻き込まれざるを得なかった。基本的には対フランス,対ロシア,対イギリスへの対応が,この王朝の方向を決めた。とくにロシアとの抗争は1828年,トルコマンチャーイ条約に集約され,さらにこれは他の諸列強にも適用され,イランの植民地化が始まった。この動きに対して,国内ではバーブ教徒の反乱,イスマイル教団のアガ=ハーンの反乱などがおこるとともに,衰退しつつあったシャーの権力と敗政の破綻が表面化し,この状態を立て直すには,国内の根本的改革が必要であった。1906年,初めて国民議会が召集され,憲法の草案作成にとりかかったが,これも列強の侵略は止めることはできず,1912年にはイギリス,フランスのイランの分割協定を承認せざるを得なかった。1921年,レザー=ハンとサイード=シャー=ウッディーンは,この現状を改めるためクーデターをおこして新政府を樹立した。
【パフレビー朝】レザー=ハンは,1925年,国民議会の推戴によってレザー=シャー=パフレビーの称号を受け,1935年には国号をイランと改めて国の近代化をすすめた。工業化の促進,教育の改革,イスラーム教の風習の廃止など,トルコのケマル=アタチュルクの改革にならったもので,これまでのイランにはみられない急激な改革であった。第二次世界大戦中,レザー=シャーの後を継いだムハンマド=レザー=パフレビーは,大戦が終わると米・ソヴィエトのあいだにあって困難な外交に取り組んだが,国内では新7カ年計画(1956),白色革命(1963)を遂行し,婦人の参政権,広範な農地改革などを実現した。外交では自由主義陣営の側に立ちながらソ連にも接近し,その国際協調路線は注目された。しかし,その改革があまりにも急激であったために反国王運動も激化し,1979年には国王は国外に亡命。同年,それまで亡命していたホメイニ師が帰国し,革命政権が成立した。