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●ベルギー

ヨーロッパ ベルギー王国 AD 

 正式国名はベルギー王国,Koninkrijk Belgie, Royaume de Belgique, Kingdom of Belgium。

 ベルギーという国名はローマ時代にこの地に住んでいたケルト系ベルガエ族に由来するといわれているが,18世紀になるまでこの呼称は一部の文人を除いてはあまり用いられなかった。ベルギーの面積は約3万平方kmで関東平野とほぼ同じ広さ。人口は986万人(1983)。国土は西部と北部は平野で,東部と南部は300〜600mの高度をもつなだらかな山岳丘陵地で,南部はアルデンヌ高地と呼ばれている。サハリン(樺太)に相当する高緯度に位置するが,西・北部は比較的温暖な気候。また東・南部の丘陵地帯はヨーロッパ大陸型の気候を示す。国民はフランス語(ワロン語という)を話すワロン人(400万人)と,オランダ語(フラマン語という)を話すフラマン人(550万人)に大別され,国の中央部を東西に走る言語境界線を境として北にフラマン人,南にワロン人が住む(首都ブリュッセルは2言語併用地区)。ほかに東部国境付近に小数ではあるがドイツ語住人がいる。宗教では90%がカトリック。政体は立憲君主制で上下両院からなる二院制の議会をもつ。元首はボードワン1世。軍事的には北大西洋条約機構(NATO)加盟国。首都はブリュッセルでここには EC 本部と NATO 本部がある。経済的には南部の石炭業とリエージュを中心とした鉄鋼業が盛んであった(1960年代まで)が,今日ではしだいに貿易港として復活したアントワープをはじめとするフラマン語地域の工業化が進み,経済の重心が移動しつつある。国民経済では石油エネルギーへの転換にたちおくれて基幹産業が弱体化し,新たな対応を迫られている。農業などの第一次産業への就業者は3%を割るが,生産性の高い酪農と園芸が特徴で砂糖・野菜・卵を輸出している。

 オランダと同じくベルギーの歴史もまた幾多の強国の支配と圧力に服す波瀾と緊張のなかでつくりだされてきた。

【中世】この地方はローマに服属したあと4世紀ころからゲルマン系諸部族の侵入が激化し,そのなかでフランク族が勢力を増した。またこの地方のトゥルネーを本拠としたクローヴィスは全フランク族を統一し,496年にカトリックに改宗した。その後カロリング朝カール大帝の時代にもこの地域はフランク王国の中心的位置を占め,経済・文化の中心地となった。9世紀後半のフランク王国の分裂に際して,ベルギーはスヘルデ川を境として,東は東フランク王国(ドイツ)に,また以西のフランドルは西フランク王国(フランス)に分かれた。10〜12世紀にはこの地域にブラバント,リンブルク,ルクセンブルク(以上公領),エーノー,ナミュール(伯領),そしてリエージュ司教領などの領邦が形成されたが,そのなかでとくにフランドル伯領がしだいに強力となって,13世紀初めにはフランス王に対して独立するほどの勢力をもつにいたった。この地方は11世紀ころから始まる商業の復活によってしだいに経済活動が活発化され,多くの都市が成立した。そして13〜14世紀に都市の自治権獲得運動が激化した。農業を基調とした封建社会に商工業の立地として自治都市が成立し,都市ブルジョワジーの実力を高めて,やがて個々の都市は自治権を獲得していった(ユイ1066年・リエージュ1196年)。またベルギーで都市が繁栄したのは当初はムーズ川流域であった(ナミュール,リエージュなど)が,12,13世紀にはフランドルの都市が繁栄した。ヘント,イープルなどの都市が上質の毛織物を製造して輸出することで,この地域は当時の北イタリアと並んでヨーロッパで最も経済の栄えた地域となった。その中心的市場がブリュッヘ(ブリュージュ)であった。ところで14世紀後半からこの地方は北部(のちのオランダ)とともにブルゴーニュ公のもとで政治的に統一化が進められていく。

【16世紀−−繁栄と分断】15世紀後半に始まるヨーロッパ経済の興隆(大航海時代の到来)と並んで,フランドル生まれのカール5世が16世紀前半のヨーロッパ政局の軸となったことによって,その重要な基盤であった南ネーデルラント(ベルギー)は経済・文化上の黄金時代を迎えた。とりわけその繁栄の中心地は新興のアントワープであって,中世的な伝統を墨守するフランドルは新しい政治・経済への対応を誤り,16世紀にはアントワープ市場の後塵を拝するほかなかった。アントワープは世界経済の結節地となり,遠来の商人が参集する世界的市場となった。そして多くの文人(トマス=モアやエラスムス)や画家(ブリューゲルデューラー)が集まり市民的な文化の中心地ともなった。その繁栄ぶりはカール5世の対抗者フランス王フランソワ1世をして,同市こそカールの支柱の一つだといわせたほどである。しかし16世紀後半になると,スペインの経済・宗教両面にわたる圧迫に対する反抗が激しくなっていった。結局反乱側とスペインの力関係,それに南部にカトリックが多かったことによって,1570年代末ごろからネーデルラントは南と北に分かれていく。北部7州と南部のいくつかの都市は1579年にユトレヒト同盟を結んだ。南部はパルマ公によって懐柔されつつ,他方でユトレヒト同盟参加の都市が次々に征服されていき(1585年,アントワープ陥落),スペイン領ネーデルラントとなった。

【17〜18世紀−−外国の支配】16世紀末までに北部はオランダ共和国として事実上独立を達成したのに対して,南部はそれ以後もなお2世紀半にわたって外国の政治的支配に服さなければならなかった。南ネーデルラントは17世紀を通じてスペインの支配を受けたあと,1701年に始まったスペイン継承戦争の結果,1713年にオーストリア領となった。この外国支配のあいだ,秩序の回復とともに経済的にかなりの発展をみせた。17世紀にはフランドルの毛織物工業が復興し,また集約農法のフランドル農法が確立した。18世紀にはオーストリアの女帝マリア=テレジアの義弟シャルル=ド=ロレーヌが執政となって諸々の改革がなされ,商工業の発展が促進された。しかしこの時期にも南ネーデルラントはいく度か戦禍をこうむった。17世紀初めのオランダとフランスの攻撃,世紀中葉のルイ14世の遠征と一部領土の割譲,1745年のフランスによる占領がそのおもなものである。

【ベルギー独立への道】ベルギー人の政治的独立への動きは18世紀末に始まる。1789年のフランス革命の勃発とともに,国内の保守派と急進的改革派が協力し,義勇軍がオーストリア軍を破った。そして1790年1月に一時的にベルギー共和国が成立した。しかし保守派と改革派の内部抗争のうちに同年末にはオーストリアに再び全土を制圧された。1794年にフランスはベルギーを征服し,翌年ベルギーを併合した。このフランス支配の時代にベルギーでは多くの改革がなされた。封建的諸特権やギルドが廃止され,ナポレオン時代には全土は中世以来の州に代わって九つの県に分けられた。そして工業はフランス支配下の広大な市場が開放されたために,リエージュやベルビエを中心として産業革命が本格的に進展した。しかしナポレオンの没落後,ベルギーは今度は新たに誕生したオランダ王国(1814年成立)に併合され,ウィレム1世治下のオランダ優先主義に対する反発が募っていった。そして1828年,自由主義者とカトリックは統一同盟を結成してベルギー人の自由の拡大を要求した。1830年7月,パリの七月革命の影響のもとにブリュッセル市民の暴動がおき,騒乱はベルギー全土にひろがって国王軍を撃退し,9月に臨時政府が樹立され,10月にはベルギー王国の独立が宣言された。国民議会は1831年に自由主義的な憲法を制定し,国王としてザクセン=コーブルク=ゴータ公レオポルドが推戴されレオポルド1世(在位1831〜65)となった。

【19世紀−−独立後の発展】独立後のベルギーでは急速に資本主義が発展した。政治的には1846年に自由党が結成されて自由主義ブルジョワジーと保守系カトリックの統一同盟が解体し,対立が深まった。しかし,1847年の選挙で成立した自由党のロジェ内閣のもとで慎重な中立政策がとられ,1848年の二月革命の騒乱に巻き込まれなかったため,ベルギーは自由主義国家としての地歩を確保していった。そして1865年に始まるレオポルド2世(在位1865〜1909)の時代に現代国家への枠組を整えていった。内政では自由党の時代が続き各種の改革がなされた。また1870年代から軍備が強化され,1885年にはレオポルド2世の私領という形でコンゴ植民地が形成された(同植民地は1908年にベルギー領となる)。そして19世紀後半に本格化する社会主義運動は1885年の労働党の結成へといたった。ところで1884年以後30年にわたって,カトリック党が政権を担当した。この間ベルギー社会は成熟期を迎え,普通選挙の要求が高まり,1913年に普通選挙の実施が決定された(ただし第一次世界大戦の勃発で延期された)。

【20世紀のベルギー】ベルギーは独立以来中立政策を堅持してきたが,1914年8月に第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に占領された。この戦争で国民生活は窮乏し,経済は衰えた。第一次世界大戦後の1918年,初めて労働党が加わった連立政権が組織された。またベルギーは中立政策を放棄してドイツに賠償を求めたが結局小さな領土を得ただけにとどまった。そしてようやく経済が立ち直りかけた1929年に,ベルギーは世界大恐慌に巻き込まれ大量の失業者を出した。挙国一致の連立政権が組織され,公共事業の推進によって危機を乗りきった。また1933年に国土は一部の例外地域はあるものの,フラマン,ワロンの両言語地域に2分された。1940年5月,ナチス=ドイツは宣戦布告なしにベルギーに侵入し,1945年までの5年間,再びドイツに占領された。この世界大戦によってベルギーは3万人に近いユダヤ人を含む多くの人命を失った。それでも国土の破壊はオランダほどではなく,経済の復興も速かった。そして1951年には工業は戦前の水準を越えた。第二次世界大戦後,1948年にベネルクス関税同盟が発効したあと,1949年にベルギーは北大西洋条約機構に入った。そしてオランダ,ルクセンブルクとともに1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体に加盟し,さらに1957年にはヨーロッパ経済共同体(EEC)の結成に加わり,西ヨーロッパの統合に大きな役割を果たしつつある。だがベルギーはオランダと違って植民地コンゴを保有し,その後その独立問題への対応を誤り(コンゴは1960年に独立),1960年代に入ってもこの問題に苦慮した。ベルギーはその後基幹産業の不振や言語問題の形をとったフラマン人ワロン人の確執などさまざまな問題を抱えつつ,統合ヨーロッパの推進によって次の時代を切り拓こうとしている。

言語問題】ベルギー人はフランス語を話すワロン人とオランダ語を話すフラマン人に2大別され,言語境界線(1961年に画定)を境としてそれぞれ別の地域に住んでいる(首都のブリュッセルは2言語併用地区でほかに東部にドイツ語住民地域がある)。ところでこの2言語を話す人々のあいだの争いはしばしば“言語戦争”と呼ばれるほど激しい様相を呈するが,これは2言語間の争いという形をとった実は社会問題というところに真の問題の所在がある。ベルギー独立の立役者であったワロン人は,19世紀のベルギー経済発展上,枢要な役割を果たしたため,財官界の要職を占めたばかりでなく,19世紀末までオランダ語は公用語として認められなかった(行政で1878年,教育で1883年に認められた)。しかしほぼ合い拮抗する人口をもつ両言語住民のあいだで一方が優勢を保持すると当然反発も強くなる。19世紀後半にフラマン運動という形のオランダ語住民の意識高揚と権利伸張の要求が高まり,しだいに政治運動となっていった。そして人口においてフラマン人がしだいに多数派を形成するようになり,同時に第二次世界大戦後の基幹産業(ワロン地域に立地)の不振とフラマン地区での工業化の進展によってフラマン人の経済力が高まると,ワロン人フラマン人の力のバランスが逆転するようになった。両言語の対等・平等という原則が言語政策(とくに教育面)に貫徹するにつれて,社会的上昇のためには両言語の使用が必要となり,このことはオランダ語を軽視する傾向の強いワロン人に不利に作用するようになった。両言語の対等という点で1例をあげると,有名なルーバン大学もルーベン市のオランダ語の大学と,1970年にワロン地区にできたフランス語の大学(ルーバン=ラ=ヌーブといわれる)と二つある(ブリュッセル自由大学についても同じことがいえる)。こうして今日では,あらゆる面でフラマン人の勢力がワロン人を上回り,19世紀とは逆にワロン人の権利回復の反発が生じかねないほどである。

【学芸】ベルギー文化は,同国がゲルマン(フラマン),ラテン(ワロン)両文化圏の接点になっていることと,フラマン文化はオランダ文化に,またワロン文化はフランス文化へと隣接する強烈な文化へ吸引されていく傾向があるために,ともすれば個性にやや乏しいとみなされやすい。しかし芸術,とりわけ16,7世紀のフランドル美術と称されるベルギー美術はヨーロッパ文化の粋をなすものとしてたたえられている。16世紀には奇才ヒエロニムスボッスと,農民を好んで題材としつつ人間性の愚かさを問いつめたペーテル=ブリューゲルがおり,また17世紀にはアントワープ出身の豪壮華麗な様式で知られるペーテル=ルーベンスが傑出している。同時代の細密な描写を特色とするオランダ美術とは違って,豪華でダイナミックな表現が好まれた。文学では15世紀のフランドル生まれのコミーヌ,また19世紀にはフラマン語で『フランドルの獅子』を書いたコンシアンスと,世紀後半の詩人のゲゼレが名高い。『青い鳥』で名高いメーテルリンクと情熱の詩人ヴェルハーレンはフランス語系の作家として著名である。また1425年に,ルーバン大学が創立されカトリック系の屈指の大学として伝統を誇っている。20世紀にかけて活躍した偉大な歴史家ピレンヌはベルギー国民史ともいえるベルギー史7巻を著し,ベルギー文化の伝統を豊かなものにした。

〔参考文献〕今来陸郎編『中欧史(新版)』1971,山川出版社

栗原福也『ベネルクス現代史』1982,山川出版社

佐々木克巳『歴史家アンリ・ピレンヌの生涯』1981,創文社

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