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●ペリクレス

ヨーロッパ ギリシャ共和国 BC495 

 前495ごろ〜前429ごろ アテナイの民主政を完成した政治家・軍人。クサンティッポスを父とし,クレイステネスの姪アガリステを母とする。内政面では,エフィアルテスとともにアレイオス=パゴスの評議会から実権を剥奪して,評議会・民会・陪審法廷に分散した。エフィアルテスが暗殺された後には,民主派の指導者としての地位を確立して,評議会・民会・陪審法廷への出席手当の支給,役人への日当,観劇料の支給制度をつくった。国内政治における彼のきわめて重要な政策は,市民権政策である。前451年,彼は両親ともにアテナイ人である者の子に市民権を限定した。この政策は市民と非市民の区別を明確にし,ポリスが市民の総体であるとするならば,ポリスの完成であるとともに,古代民主政の徹底からの当然の帰結でもあった。外政面では,ペリクレスはアテナイの帝国主義政策を積極的に推進した。前448年のカリアスの平和をきっかけとして,対ペルシア同盟としてのデロス同盟の存在理由が疑われ始めたときから,彼が指導するアテナイの対外政策は従属諸ポリスに対する支配を強化した。同盟諸ポリスからの貢納徴収,国外への駐留軍派遣などの措置によって,他のポリスに対する経済強制,内政干渉,土地収奪をとおして,ポリス存在の根幹である自治を侵害したが,同時に,それは自治を柱とするポリス分立主義を克服する現実的な試みでもあった。彼は諸ポリスのあいだで個別的に通用している貨幣・度量衡を統一しようとしたが,この試みはスパルタの反対で実現されなかった。彼は,政敵であり親スパルタ的でもあったキモンとは異なって,スパルタとの対決を不可避とみなし,前431年,スパルタとの対決に踏み切った。ペロポンネソス戦争における彼の戦略は,エーゲ海の支配者としてのアテナイの地位をスパルタに誇示することにあった。スパルタの陸軍力を前提として,アッティカの全住民をアテナイ市の防壁内に避難させて,スパルタの陸路からの攻撃に備える一方で,絶体的優越を誇る海軍力でペロポンネソス半島を攻撃・略奪することによって,勝利を得ようとした。しかし,この作戦は防壁内の衛生状態や住民の過密のために,ペストの流行を招き,彼自身もペストで没した。彼の政策を支えていたものの一つは,時代の新思想であった。ソフィストたち,ことにアナクサゴラスやダモンとの関係が深く,先に述べた日当支給制度は後者の進言によるといわれている。いわゆる進歩的思想のために,アリストファネスは彼を喜劇のなかで悪評している。軍人としての功績のなかには目立ったものはないが,政治家としての力量を示す弁論には長じていて,彼は演説によって大衆を自由に操作し,彼らが勝利に酔っているときには慢心を抑え,意気消沈しているときには鼓舞激励した,とトゥキュディデスは伝えている。貧困市民のための政策は都市大衆におもねり,彼らを怠堕にしてしまった,という批判は当を得ているが,大衆に対する彼の態度はオリンポス山の主神ゼウスに比較され,トゥキュディデスの評を借りるならば,名のみは民主政であったが,その実は一人支配であった,といわれる。彼の没後は,クレオンをはじめ,いずれも小粒でアテナイ民主政を衆愚政にしてしまったことからみるならば,種々の批判はともかくとして,少なくともアテナイの一時期の繁栄を築き上げた政治家であることは間違いない。