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●ヘボン

北アメリカ アメリカ合衆国 AD1815 

 1815〜1911 アメリカ長老派教会宣教医師。明治学院総理。アメリカのペンシルバニア州ミルトンに生まれ,プリンストン大学を卒業してペンシルバニア大学で医学を修め,脳卒中の研究論文で医学博士となった。東洋伝道を志し,1841年,シンガポールに赴き,1843年にはアモイに転じて,伝道と医療に従事したが,夫人の病気で1845年アメリカに帰り,ニューヨークで開業,眼科医として名声を博した。1858年7月,日米修好通商条約が締結され,宣教師の居留が可能になったので,日本伝道に意欲を燃やし,宣教医師となって,1859年10月,神奈川に上陸,宣教師宿舎となっていた成仏寺に入った。しかし幕府の方針で,1862年12月,居留地39番谷戸橋畔に移り,1876年には山手に移り住んだ。1892年10月,帰国の途につき,33年間滞在した日本をはなれ,11月サンフランシスコに到着した。日本滞在33年間のおもな業績は下記のとおりである。

【医療】神奈川の成仏寺に住んで2年たった1861年の春になって,近くの宗興寺で施療所を開いた。初めは江戸の医者からの紹介の重病患者がおもだったが,のち近所の患者もくるようになり,患者に負担をかけず治療成績も良好だったので評判となり,1日平均20人〜30人くるようになった。6月には100人と増加したので,神奈川奉行所は,ヘボンの評判のよいのを快く思わず,診療について,いろいろ手続きを面倒にして制限を加えた。居留地39番に移ってからも診療を続けた。歌舞伎役者沢村田之助に,アメリカから取り寄せた義足をつけてやり,再び舞台に立たせて評判となった。ここでは1日平均40人位を治療,そのうち60%は眼病であった。ヘボンは眼病薬を処方して岸田吟香に与えた。

【教育】成仏寺では幕府からの委託生大村益次郎ら9名に英語を教えた。居留地に移ってからは,夫人は教育者であったので2人で塾を開いた。日本最初の男女共学ヘボン塾である。ここでは高橋是清林董(ただす),益田孝,三宅秀などが学んだ。また横浜英学所でも教え,大鳥圭介,安藤太郎らが教えを受けた。1889年(明治22)10月,明治学院が成立したとき初代総理となり,1891年までその職にあった。ヘボン塾の女子部はフェリス英和女学校となった。

【聖書和訳】伝道には聖書を日本語に訳して読ませることが重要で,ヘボンは,成仏寺にいるときから聖書和訳をはじめ,居留地に移ってから本格的に和訳をすすめた。1872年秋には,S.R.ブラウン,奥野昌綱と共訳の『馬可伝福音書』『約翰伝福音書』を出版した。この年共同訳委員となり,委員長 S.R. ブラウン宅で訳業を始め,1880年4月完成出版した。引き続いて,旧約聖書和訳委員となり,横浜から出かけて参加し,1888年2月完成させた。16年間共同訳委員をしたのはヘボンただ1人である。なお,1889年には『ローマ字新約聖書』を出版している。

【伝道】ヘボンは伝道にも情熱をかたむけ,自宅で日曜学校を開いたり,礼拝も行った。ヘボン塾生が中心となって,横浜第一長老教会(指路)を組織したときも援助を惜しまなかった。自費で木造の教会堂を建ててやった。1892年には,資金を寄付して赤煉瓦の指路教会を完成させた。同年10月,この会堂でヘボン夫妻の送別会が行われた。指路教会は,“ヘボン記念会堂”となっている。

【その他】ヘボンは,宣教師の日本語学習を助けるためと,聖書和訳のために,日本語研究に没頭し,英和・和英共通の辞書を編さんし,岸田吟香の助けを得て『和英語林集成』を1867年上海で印刷し,横浜から出版した。これは評判もよく7版を重ね,また偽版も出たほどである。この日本語の表記法はヘボン式ローマ字で,現代にも使われている。イギリス人ブラックは,〈日本人民の為めに智識の門戸を開き,彼等をして知らず識らずの間に文明の徳沢に浴せしめた功労に至りては,米国人中ドクトル=ヘボンの右に出づるものはない。日米両国の交際を親密ならしめた功労は,遥かにペルリやハリスの上にあり〉と称賛している“新日本の開拓者”また“新日本文明の父”と称せられるのもけっして誇張ではない。

〔参考文献〕山本秀煌著『新日本の開拓者 ゼー=シー=ヘボン博士』1926,聚芳閣

高谷道男著『ドクトル=ヘボン』1954,牧野書店

横浜市広報センター編『市民グラフ=ヨコハマ―ヘボンと横浜―』1979,同広報センター