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●北京条約 ペキンじょうやく

アジア 中華人民共和国 AD1860 清

 1860年(咸豊10)中国清朝が英・仏・露3国とのあいだにそれぞれ締結した不平等条約。1856年のアロー号戦争に端を発した中国に対する英仏連合軍侵入は1858年の天津条約締結で一応の結着をみたが,調印時に定められた1年以内に北京で批淮を交換することをめぐり,清朝と英・仏両国とのあいだで紛争が再発,英仏連合軍は北京に突入する。その10月17日に両国大使が恭親王に送った最後通牒を基礎として10月24,25日に調印されたのが中英北京条約と中仏北京条約である。おもな内容は,[1]清朝は関税収入から各800万両を賠償金として英・仏両国に支払う。[2]天津条約の諸条項は,北京条約による一部改正を除き実施されること。[3]天津条約後,一時諒解が成立したところの,各国外交使節の北京以外駐留と必要に応じての入京許可という改正条項を廃棄し,天津条約どおり北京に駐留させること。これにもとづき1861年には英・仏・露が,翌1862年には米国がそれぞれ北京に公使館を開く,[4]天津条約では天津の開港が含まれていなかったが,北京条約では認めさせる。[5]中国移民の海外渡航を公認する。本来,清朝は人民の海外移住を禁止し,違反するものは極刑をもって処分する方針であった。しかし実際には渡航者は増加する一方で,地方官はこれを黙認していた。だが19世紀中ごろになると中南米・オーストラリア・カリフォルニアなどの農園・鉱山労働者として中国人が送り出される苦力貿易が盛んになり,彼らに対する搾取,虐待が大きな問題となっていた。この条項は,労働者移民の公認とそれによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。以上は英・仏両国に共通する内容であるが,個別的なものとして,[6]イギリスに対して九竜半島の一部を割譲すること。1858年1月,すでにイギリスは両広総督勞崇光に同地の永久租借を認めさせていたが,この条項により租借契約を取り消し香港の附属地にしてしまう。これにより広東の経済的孤立と香港の勢力拡大に拍車がかけられる。[7]フランスに対する没収教会財産の返還。フランスはかねてからキリスト教布教を通しての勢力拡大をはかり,その具体策として,かつて康煕帝時代に認可されながら弾圧により没収された教会財産の返還を要求していた。1846年にはフランス公使の手により旧所有者に返還するという道光帝の上諭を得ていたが実効性がなかった。この条項によりはじめて具体化する。なおこの条項の中国文テキストには「フランス人宣教師は各省に在りて田地を租買し建造すること自便に任す」という仏文テキストにない条文が挿入されていた。以上のほか,条約に直接規定されていたのではないが,条約実施の結果として北京に総理各国通商事務衙門が創設される。

 ロシアとのあいだに結ばれた中露北京条約は,英仏のそれとは違い領土問題を主とするものである。ロシアは英仏連合軍が北京を占領したさい,交渉斡旋を口実にして全15条の条約を1860年11月14日に調印させる。最も重要なのは沿海州の帰属問題である。愛琿条約では沿海州即ちウスリー江から海岸までの約40万平方kmの地域は当面清露両国の共有とされていたが,本条約によりロシア領に帰せられた。ロシアは翌1861年にはウラジヴォストークを建設する。そのほか,中央アジアのカシュガルを通商地として定めて免税自由貿易をなさしめ,ウランバートルと張家口でロシア商人が交易することを認めさせる。さらにロシアはカシュガルウランバートルに領事館を設置し領事裁判権を獲得した。

〔参考文献〕植田捷雄『東洋外交史』上1969,東京大学出版会