●北京 ペキン
アジア 中華人民共和国 AD
中華人民共和国の首都 北緯39度54分,東経116度23分(市の中心,天安門前の地点)。標高43.38m,面積約1万7,800平方km,人口約849万(1979推定)河北省中央部にあり,国の直轄市となっている。市域は旧北京城の内城の東半分を東城区,西半分を西城区,外城の東半分を崇文区,西半分を宣武区といって城区をなし,その周囲の東部を朝陽区,南部を豊台区,西部を門頭溝区,北西部を海淀区の部区が囲み,さらにその外側を昌平,通,順義,大興,房山,平谷,懐柔,密雲,延慶の9県が取り巻いている。【地勢】華北平野の最北端,潮白河,永定河のつくる扇状地上にあり,北京湾と呼ばれるポケット状の小平野をなしており,東,西,北を500m級の山に囲まれている。夏は高温で比較的雨が多く,冬は乾燥寒冷で,年平均気温は11.9度,7月の平均気温26.6度,1月は零下5度,年平均雨量630mmである。
【歴史】1929年,周口店で発見された北京原人の人骨が示すように,この地方には古くから人類が住みついていたことがわかる。南北交通の要衝として戦国時代にはすでに燕国の首都として知られて,薊と呼ばれた。その場所は外城の西門外500m付近の丘と推定されている。燕は始皇帝に征服されたが,以後,唐末まで東北方面を防衛する軍事上の中心としてまた商業上の中心として重きをなし,幽州の州都であった。その後五代後晋のとき,契丹族の遼が南下し,幽州城を占領し,副都として南京と命名,宋と抗争した。やがて遼のあとに女真族の金がおこり,遼を滅ぼして南京を占領し,中都と呼んだ。中都城は1辺5kmの方形をなし,いまの北京の南西から西郊にかけてつくられた。しかし豪華を誇った金の中都も1215年,モンゴル軍の侵入により破壊され廃墟と化した。モンゴル5代の皇帝フビライ=ハンは,南宋を征服し中国を統一し,元を建国したが,彼は中都のあとに新都の建設を命じ,7年の歳月をへて完成させ,これを大都と命名した。マルコポーロがその華麗さを賛え,ヨーロッパにまで聞こえたカンバリックである。大都の南壁は現在の長安街と一致し,北壁は内城の北側2kmのところにあり,現在の北京内城の前身をなすものであった。明がおこると大都は占領破壊され,太祖は南京を都としここは北平と呼んだが,成祖永楽帝が政権を握ると,1403年,北平を北京とし南京から遷都した。北京の名称はこれから始まる。翌年から新宮の建設が始まり,1420年にいたって完成した。明代では南門前の商業の繁栄に伴って南に外城をひろげる反面,さびれてきた北側を縮小した。現在の北京の内外城の規模はこのときからほとんど変わっていない。清朝は1644年に入関し,270年間中国を支配したが,ごく一部を除いて特別な改建は行わなかった。ただ異民族王朝の性格から満州族を内城に住まわせ,外城は漢民族の居住区とした点が変わったところである。1911年,清朝滅亡後は北京は北洋軍閥の所在地となり,蒋介石の国民党よる北伐後は,南京に都が遷されて,北平と改称された。しかし,1949年1月30日,中国人民解放軍が入城し,9月27日,中国人民政治協商会議第1回全体会議で,北平を北京と改め,中華人民共和国の首都と決定したことにより,北京の名称は復活し,現在にいたっている。
【現状】解放前の北京は消費都市の傾向が強かったが,人民共和国成立後に計画経済の強みにより各種の近代工業がおこり,紡績,食品などの軽工業から機械,電機,化学,自動車などの重工業が発展し,工業都市に脱皮している。石景山には鞍山につぐ大型鉄鋼コンビナートがある。近郊の人民公社では,疏菜,果樹,畜産,水産などの生産を発展させ,それに関連して,十三陵ダムなどが建設され洪水防止とともに農業,工業用水,上水道の水源が確保されている。北京はまた中国最大の芸術文化の中心として中国科学院の各種研究所,北京,清華,北京師範,中国人民などの大学,革命・歴史・中国人民革命軍などの博物館,北京図書館,労働人民文化宮などの文化施設や北海・中山公園,頤和園,碧雲寺などの名勝も多い。
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