●平和問題 へいわもんだい
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【平和問題の意味】ある特定の時期,特定の地域,ことに国と国とのあいだで紛争があり,そのため戦争がおこりそうな状態になった場合に,平和を維持・確保するという意味での平和問題がある。また,戦争がおこってしまった場合に,そこに平和を回復することが平和問題と呼ばれる(和平問題,講和問題ともいう)。さらに,戦争と呼ばれなくとも,武力衝突や,ある国の内部での武闘や内戦も平和を脅かしたり乱したりする。最近の平和研究の成果としての平和の意味内容の変化については後述するが,平和ということばや概念にこめられる意味内容いかんによって,平和問題の意味も違ってくる。それらの意味のすべてにわたって平和問題をとらえ,解説することは不可能に近いので,ここでは,歴史を通じて平和にかかわる問題を概観したり,個々の平和問題を考察したりする際に有益と思われる平和思想と,“核時代”の平和問題についてのみ概説することとする。【平和の意味,とくに“積極的平和”について】平和とは国と国とのあいだに戦争がない状態であると考えられ,平和と戦争という二つのことばが反対語とみなされてきた。古代から現代にいたる歴史を通じて,多くの支配者・権力者も,民衆もおおむねこのように考えてきた。しかし思想家,哲人,宗教家などの多くは,平和についてもう少し深い思想をもっていたと思われる。この平和思想のいくつかについては後述することとし,最近における平和研究の成果としてあげられるもののなかで,まず平和の意味についてのそれを略述すれば次のとおりである。戦争がない状態としての平和は“消極的平和”と呼ぶべきもので,“積極的平和”はもっと豊かな内容をもつものと考えられる。ここにいう平和研究は1960年代以来欧米,ついでインドや日本において組織的に進められてきたもので,新しい学問の領域(分野)として確立されることをめざしている研究者もいる(それは“平和学”“平和科学”,などとも呼ばれるが,他方“平和研究”を peace research のほか,peace studies と英訳することもある)。その平和研究者のあいだで,“積極的平和”という呼称を用いるか否かは別としても,その意味内容についてはおおむね一致した認識がみられる。それはきわめて簡単にいえば,あらゆる暴力が排除されている状態を平和と考えるということである。戦争や武力紛争などで用いられる軍事力,軍隊や民兵や警察隊などが行使する力を“直接的暴力”と呼ぶとすれば,人間社会には,それ以外にも暴力が存在し,ことに,目にみえないが“直接的暴力”に劣らず強い作用をもつものがある。たとえば,多くの開発途上国においては,貧富の格差が拡大し,その他種々の不平等や差別や抑圧がみられるが,そうした状態は単に過渡的・偶発的なものでなく,それを生む構造が存在することが指摘されている。大正初期,すなわち1920年代の日本において『女工哀史』(1925)と題する著作に描かれたような事態と,それを生みだした構造が存在したことは,現在では広く知られているが,それに似た状況や構造が東南アジアその他の第三世界の開発途上諸国に現実に存在している。そこに働いている政治的,経済的,社会的,文化的,イデオロギー的などの力の組み合わさったものが“構造的暴力”である。そして,“直接的暴力”だけでなく“構造的暴力”も排除されている状態こそ,本当の平和,“積極的平和”と呼ばれるものである。平和の意味をこのように考えるならば,それが開発(発展;英語はいずれも development)および人権尊重ということと密接に関連していることが容易に理解されるであろう。この点も最近の平和研究の成果の一つであり,1970年代末ごろから国連関係機関や一部の民間の研究者のネットワークによって進められてきた“平和・開発・人権の相互関係”についての研究から“発展権”という新しい概念が生まれてきたことなど,具体的な例であるといいうる。また,広い意味で平和の研究と呼ぶことができる日本の憲法学者などの研究によって,“平和的生存権”の概念も深められ,普遍性を認められつつあるといいうる。日本国憲法前文第2項末尾に〈われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する〉という文章がある。この表現も内容も,1941年8月14日,チャーチル英首相とルーズベルト米大統領が発表した“大西洋憲章”のなかの(すべての国のすべての人類が恐怖および欠乏から解放されてその生命を全うすることを保障するような平和が確立されることを希望する〉という項とほとんど同じであることは注目されてよい。
【平和思想】古代においてもたとえば旧約聖書のなかには“平安”への希求とともに“隣人との平和”をよいものとする思想がみられる。詩篇37〜38には「全き人に目を留め,直ぐな人をみよ。平和の人には子孫ができる。しかし,そむく者は,相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる」という節がある。また,ギリシアの哲学者クセノフォンの『経済論』や『キュロスの教育論』のなかには,戦争との対比における平和のほかに,“正義と人道にもとづく平和”のための政治的条件について述べたところがある。アリストファネスは多くの喜劇を書いたが,『女の平和』は戦争を欲する男たちに対して女たちが懲罰的な性のストライキを行って平和を確保するという筋である。ローマ時代には“永遠の”ローマ帝国の支配の下で,“ローマの平和”が謳歌されるが,その pax は元来,協定締結を意味し,“ローマの平和”の内容も単に政治面のこととローマ市民によって考えられていたようで,しかももっぱらローマ市民のための利己的な“帝国主義的な”“平和”に過ぎなかった。ローマ市民以外の人々,とくに奴隷・被征服民族や植民地の住民にとっては,その“平和”は平安を保障するものとは限らず,いわんや,ローマの支配に抵抗したブリタニア島住民のごとき場合には,“平和”は平定すなわち皆殺しをも意味した。しかし,ローマにおいてものちにギリシア哲学の影響を受け,平和について概念に変化がみられるようになり,キケロ,セネカ,ルクレチウスのような哲学者は,平和を“精神の完全な平静”ととらえ,それを社会全体および諸国民の関係に拡張していくべきであると説いた。その後キリスト教の影響が入ってからは,たとえば聖アウグスチヌスのように,平和はそれ自体意味のあるものとして,“静穏のなかの秩序”であると定義されるようになった。この定義は国内の平和にも国際平和にも適用され,また約8世紀のちの聖トマス=アクィナスによって継承され,さらに近代でも平和の定義の基礎とみられてきた。中世ヨーロッパにおいては,修道院制度の基礎を築いた聖ベネディクトは,“ベネディクトの平和”と一部で呼ばれる平和思想を創出した。それはヨーロッパ文化に大きな影響を及ぼした修道院という“家”において追求された“善=平和”が,修道僧たちの奉仕的活動を通じて周囲の社会に浸透していき,やがては社会を変容させるという思想である。これは新しい文明のための新しい人間の形成という考えでもあり,今日の“平和教育”に相当するともいいうる。聖アウグスチヌスの平和の定義を継承した聖トマス=アクィナスは,そのような平和と不可分の“正義の戦争”の論を創出したが,双方の交戦者がいずれも正義を主張した場合に誰がいかにして判定を下しうるかという問題がおこる。“正義の平和”についても同様であろう。なお,“正義の戦争”の論(“正戦論”)が根本的な修正を余儀なくされるのは“核時代”の戦争についてである。平和思想と並んで,法ことに国際法による人間の行為の規制も漸次進んできた。古代においては征服戦争によって都市全体が滅ぼされることも少なくなかったが,キリスト教がひろがった中世ヨーロッパにおいては,都市と非戦闘員を保護する“戦争法”が制定され,一般に遵守されるようになった。とくにイタリアの都市国家のあいだで外交使節の特権や免除の慣習が確立され,それらの使節の活動による紛争調停,解決の技術も進歩した。これらイタリアの都市国家,ついでアルプス以北の西ヨーロッパにルネサンスが華をひらき,市民のあいだに民主主義や平和の思想の萌芽もみられるようになるが,他方で戦乱も絶えずおこった。宗教改革の時代に入ると,そこに宗教宗派の争いが加わり,平和思想にとっても過渡期が続いたというべきであろう。その間において,エラスムスは『平和の訴え』(1516)を著し,獅子ですら同族相闘うことはないのに人間は戦争において残虐に殺し合っているが,この戦争は実際には君主間のもので,人民は被害者でしかないと説いた。この著作はヨーロッパにおける平和についての体系的な著作として最初のものといわれる。16〜17世紀には平和を論ずる思想家が輩出した。グロチウスは自然法の概念を国際関係に適用して『戦争と平和の法』などを著し,“国際法の父”と呼ばれる。またロックは自然状態は平和と秩序の世界であり,人間は自然権に対する侵害を防ぐために契約を結んで国家をつくるので,したがって主権は人民の手にあると論じた。ペンは『ヨーロッパの今日および将来の平和をめざしての論文』を著し,クウェーカー主義の立場から平和を探求した。今日においても,クウェーカーの絶対的平和主義は“良心的兵役拒否”運動その他,平和運動において顕著な力を示している。ついでドゥ=サン=ピエールも『ヨーロッパに永遠平和をもたらすためのメモワール』『(同)計画』を著し,少しのちにルソーが『サン=ピエールの永遠平和論の抜萃と批判』を書いた。サン=ピエールは絶対主義諸国間で君主や大臣の理性に信頼して現状維持をはかることを平和の方策としたが,ルソーはそのような方策を批判し,むしろ民主主義によってのみ平和を確保しうると主張した。この両者の平和論をふまえつつ,画期的な平和論を提示したのがカント(1724〜1804)で,その『永遠平和のために』(1795)は今日も平和研究の重要な手掛りとされる不朽の名著である。そこには平和条約や国家のあり方・扱い方から,常備軍全廃,対外紛争や軍備のための国債の禁止,他国の国家体制や統治への不干渉,相互信頼を不可能にするような敵対行為の禁止,全滅戦争禁止などが主張されている。また平和確保のための国内政治のあり方としての共和制の強調,反革命の禁止などの主張も含まれており,とくに,国際法は自由な国家のあいだの連盟を基礎とすべきであるという主張は,そののち120余年たってから国際連盟として実現されるにいたった重要な理念の源であった。カントの平和論に盛られた平和思想は,要約すれば,民主主義と独立が平和のために不可欠であり,諸民族の関係は平等でなければならず,植民地主義や他国の従属は許されないというものである。カントより少し先立つが,近代の人権宣言,とくにその最初のものとされる“アメリカ独立宣言”(1776)は,平和思想の古典的文書として重要であり,人民が基本的人権の,最も重要なものとして平和に生きる権利を有することが合意されている。また,日本においても,自由民権運動以来,平和思想を抱く思想家が少数ながら現れ,その名前だけあげれば次の通りである。中江兆民(1847〜1901・弘化4〜明治34)・幸徳秋水(1871〜1911・明治4〜44)・片山潜(1859〜1933・安政6〜昭和8),堺利彦(1870〜1933・明治3〜昭和8),内村鑑三(1861〜1930・文久1〜昭和5)・木下尚江(1869〜1937・明治2〜昭和12)および柏木義円(1860〜1938・万延1〜昭和13)。
【国家と国際社会の特質】“積極的平和”に関連して,“直接的暴力”および“構造的暴力”について前述したが,それらと国家権力との関係,とくに“近代国家”との関係も避けて通ることができない重要な問題点である。“近代国家”の始まりは“絶対主義国家”(“絶対王制”ともいう)であり,それは封建時代の経済社会が崩壊し,しかも近代資本主義社会が確立するにいたらないという過渡期に現れた国家群であるとされる。しかし,その後,産業革命をへて資本主義国家群が出現し,さらに現代の諸国にいたるまで,およそ国家権力の性質には根本的な変化はなかったというべきである。この国家の特質を要約すれば“主権・領土国家”で(かつ多くは“国民国家”で),その“主権”すなわち国家権力はほとんど“絶対”“至上”のものとして,その領域の隅々にまで及んでいる。このような国家の特質は,それらの国家が構成する国際社会の基本的性質にも制約を加えている。17世紀前半,新旧両派の宗教的対立によって“三十年戦争”が続いたが,それを終結させて平和を回復したのがウェストファリア条約(ドイツのウェストファーレンで締結)であるが,この条約を柱とする当時のヨーロッパ諸国の国際関係維持の体制を“ウェストファリア体制”と呼ぶ人が多い。この“ウェストファリア体制”が,その後の国際関係においても,構成する諸国や支配者や政府に大きな変化が生じたにもかかわらず,依然として基本的体制として今日に及んでいるといわれる。その体制のもとでは,構成メンバーとしての“主権国家”の“主権”は基本的に侵され損なわれることはなく,必要な場合には調整妥協がはかられるに過ぎない。第一次世界大戦後に創設された国際連盟と,第二次世界大戦後の国際連合(国連)とは,国際社会における普遍的な機構として構想され,前者は必ずしもそうならなかったが,後者はおおむねその目的にかなう機構になっている。しかし,前述の“主権国家”の特質と“ウェストファリア体制”は,これら国際機構をも制約している。すなわち,国連安全保障理事会の常任理事国である米ソ英仏中の5カ国はいわゆる“拒否権”をもち,その欲しない決定などが安保理事会で採択されることを阻止することができるが,安保理事会以外の国連の機関においてもその“主権”を大きく制約されることはない。そして,この点は5カ国以外の国連加盟国についても同様である。換言すれば,国連の機能には基本的に制約があり,そのため世界政府や世界連邦に期待されているような機能や役割を果たすことはできない。また,国連憲章上は,平和を乱そうという国に対して,国連軍が出動して制裁を加え,あるいはそのような非行を防止することが可能であったはずであるが,第二次世界大戦後の東西対立などのため,そのようなシステムはいまだに完成されておらず,近い将来にそれが実現にむかう見込みもない。1950年に勃発した朝鮮戦争や,その後の中東紛争などに際して“国連軍”が派遣されたが,それらは憲章が安全保障システムの一環として予定していた国連軍とは別のものである。もとより,これら“国連軍”による“平和維持活動(PKO:Peace-keeping Operations)”,は重要であるが,戦闘が停止されたのちに派遣され,再度の交戦を阻止することにより平和を維持するもので,当初から平和が破られるのを予防するものではない。国連の PKO を強化したり,その他できる限りの方法で国連をより十分な平和構築のための国際機構とする努力は必要であるが,他方で前述の国家および国際社会の制約について検討を加えておくことが心要であろう。
【核時代の平和問題】第二次世界大戦中の1942年,アメリカは原爆開発をめざす“マンハッタン計画”を実施し,1945年7月16日最初の原爆実験に成功し,8月6日広島,9日長崎に原爆が投下された。すなわち,核エネルギーを用いた“核兵器”が実戦使用された。この時期,とくに8月6日を“核時代”の幕あけのときとみなす人が多い。その後1949年にソ連も最初の原爆実験を行い,1952年英国,1960年フランス,1964年中国が続いた。さらに米ソは水爆開発にむかい,1954年,1955年それぞれ水爆実験に成功し,1957年英国,1968年フランスおよび中国が続いた。1954年3月1日,ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験は付近の島の住民のほか,危険水域外にあった日本の漁船,第五福竜丸の23名の乗組員にも“死の灰”を浴びさせ,久保山愛吉無線長は約200日後に死去した。この“ビキニ水爆被災事件”はそれまで散発的にしか行われなかった日本の原水爆禁止運動を一挙に盛り上がらせるとともに,翌1955年の“ラッセル=アインシュタイン宣言”発出の契機ともなった(後記参照)。国連も,憲章には核兵器や原水爆の字句すらみあたらないが,1946年ころから原子力国際管理や軍縮実現をめざす活動を相当活発にすすめた。しかし米ソ両超大国をリーダーとする両“陣営”の対立は,国連のそのような活動を実り少ないものにさせてきた。米ソ間あるいは多国間で締結された軍備管理(軍縮とまではいかない)協定の主要なものは次の通りである。国連もその多くに関与してきてはいるが,国連の活動の成果とはいい難いものが多い。
1959年 南極条約(南極地域での軍事行動禁止)
1963年 部分的核実験禁止条約(地下実験を含まない)
米ソホットライン協定
1967年 宇宙天体条約(核兵器を軌道に乗せること,天体上での軍事施設設置・軍事活動を禁止)
1968年 核兵器拡散防止(“核防”)条約(非核保有国の核兵器取得を禁止)
1971年 海底条約(海底への核兵器設置を禁止)偶発戦争防止協定(米ソ間)
1972年 生物化学兵器禁止協定(細菌,毒素兵器禁止)
1974年 部分的地下実験禁止条約(米ソ調印,未批准,150kt以上の爆発力をもつ核兵器の地下実験禁止)
1977年 環境兵器禁止条約(環境破壊技術の軍事的・敵対的利用を禁止)
さらに米ソ両国間では,1972年,戦略兵器制限第1次交渉(SALT I)の結果としての協定が締結され,ついで1979年,同第2次交渉(SALT II)の調印もされたが,批准されないうちに“新しい冷戦”と称されるほどに両国関係が悪化し,SALT II に代えてアメリカ側が提唱した START すなわち戦略兵器削減交渉が1982年,開始されたものの,次の INF とともに,1983年12月,交渉は無期休会となった。ここにいう INF は中距離核戦力すなわち戦略核兵器(射程5,000km以上)と戦術核兵器(同1,000km以上)の中間にある核兵器で,“戦域核兵器”とも呼ばれる。実際にはソ連のSS20とアメリカのパーシング II が問題となってきた。米ソは1981年11月からヨーロッパの INF 制限交渉を本格的に行ってきたが,1982年12月,交渉は中断された。アメリカ側は1979年12月のNATO理事会において,1983年12月後半からパーシング II 108基を西ドイツに配備するほか,新型ミサイルの西ヨーロッパ5カ国への配備が決定されていたのを実施することに固執し,ソ連側は INF 交渉を通じてそれを阻止しようとつとめ,交渉途中で双方から若干の提案がなされはしたが,アメリカ側が実施に踏み切ったことに対してソ連側が交渉打切りをもって応じた。なお,米ソをはじめ NATO およびワルシャワ条約機構(WTO)の主要諸国が参加して,1973年以来,ウィーンで中部ヨーロッパ兵力削減交渉(MRFA)がすすめられてきたが,そこでも双方の対立が続いている。ただ,ヨーロッパについては1975年,米ソも参加した全欧安保会議において,東西ヨーロッパの現状固定と交流,人権尊重の原則を内容とする“ヘルシンキ宣言”が採択されており,そのフォローアップも息ながく続けられていることは忘れてはならない。また,国連による軍縮問題への取り組みとしては,1978年,第1回国連軍縮特別総会,1982年,第2回国連軍縮特別総会が開催され(それぞれ SSD I・SSD II と略称),とくに前者は画期的な“最終文書”を採択し,それは後者によっても再確認されており,さらに1986年“平和の国際年”が予定され,その後 SSD III も予想されている。他方で,SSD II をひかえた1981年ころから,ヨーロッパおよびアメリカ,日本などにおいて新しい“反核”運動が盛んになった。それは主としてヨーロッパにおいて前述のパーシング II ミサイルなどを NATO 決定の通りに配備することに対する反対,米ソ双方への核軍縮実施の要求などを主張する運動であるが,それを刺戟した直接の契機としてはアメリカ,とくにレーガン政権による“限定核戦争”の戦略的な考え方が強まったことにあった。アメリカの核戦略は時代と核兵器の開発・配備状況によって何回か変化してきたが,1980年代に入ってからの対ソ強硬姿勢と,核ミサイルの命中精度向上などから,ヨーロッパ“戦域”において“戦域核兵器”による“限定核戦争”が実施される可能性がますます大きくなったように感じられた。それが実際におこった場合,アメリカ本土は“聖域”として核戦争の被害を蒙ることはないが,ヨーロッパは核戦争の戦場とされ,各地に“ヒロシマ・ナガサキ”の“核のホロコースト”が生ずる。それを“ユーロシマ”と呼ぶ人も多い。しかし,そのような状況になった場合,ソ連は“聖域”として圏外に置かれるとは限らない。パーシング II はソ連領ヨーロッパに届くばかりか,8〜10分で到達可能である。また,アメリカのなかにもヨーロッパを犠牲にして核戦争を“限定”することに対する反対意見もある。いずれにしても“限定核戦争”が全面的な核戦争にエスカレートしないという保証はどこにもない。
もともと,広島・長崎の被爆者たち( hibakushas ということばが英語のなかでも用いられるようになっている)を中心とする原水爆禁止,核兵器廃絶の要請は,当初から“人類絶滅のおそれがある核戦争”の防止を,その思想の基底に含めてきた。“核のホロコースト”を体験した“ヒバクシャ”たちは,当時としては一種の“限定”された核兵器による被災のなかに“人類絶滅”の可能性を直観していたということもできる。これこそ“核時代”の平和問題の重要な一面を先取りしてきたものというべきでもあろう。
【人類共同体の実現へ】欧米や日本,インドなどの平和研究者その他の知識人のあいだで,最近,“全地球的問題(群)”と呼ばれて深い関心と憂慮が払われている問題がある。それは核戦争の危機,数億人におよぶ慢性的飢餓あるいは“絶対的貧困”,難民などの大量流出,基本的人権の侵害および環境破壊の問題であり,しかもほとんどの問題が緊密に関連し,あるいは“構造的”要因から生じているとみられている。前述の“構造的暴力”もその一つである。そして,これらの問題に取り組むための“パラダイム(思考の枠組)”の一つとして,やはり前述の“平和・開発・人権の相互関係”,あるいはこれら三つの結合(“リンケージ”)への留意とそれのいっそうの究明がある。こうした着眼や発想は必ずしも新しいものではなく,平和思想についての前述の説明のなかにもいくらか萌芽的なものをあげておいたが,“全地球的問題(群)”の方はきわめて新しい問題であるから,それに取り組む側の平和思想も従来のものより一層深いもの,力のあるものでなければならず,とくに十分な体系を備えている必要があるであろう。この点から,平和研究の進展にますます大きな期待がかけられるが,前述のいくつかの成果,なかんずく“平和的生存権”の普遍的権利としての確認と,“核時代の平和問題”へのその適用に一つの重要な手掛りがあるように思われる。ここにおいて想起されるのは,米ソの科学者をも含め,科学者の率直な対話を通じて核軍縮などの促進・実現に寄与しようという“パグウォッシュ会議(1957年発足)”にも参加し,またその成果に大きく寄与してきた湯川秀樹,朝永振一郎,坂田昌一という3教授の思想,とくに核廃絶についての基本的な考え方の重要性である。それは次のように要約することができよう。まず,核兵器は“絶対悪”であり,それを廃絶することが人類的課題である。核兵器を保有しつつ“力の均衡(バランス=オブ=パワー)”を求めたり,あるいは“低いレベルで均衡させる”ことによって核軍縮を期待するといった妥協的な考え方も,いわんや“核抑止力”といった“神話”に依存して平和と安全保障を維持しようという考えも,原子力と人類の関係を正しく理解していない誤った認識や世界観から生じている。また,原子力の問題は人類全体の問題であり,その根本的解決は人間の心のなかから始められなければならない。それは人類がその繁栄と幸福とに直接つながる人類共同体の実現へむかって大きく歩み出す,その進歩と運命の共同,連帯のなかで解決されるべきものである。1955年の“ラッセル=アインシュタイン宣言”のなかでも同様な“人類の一員として”ということばがキー=ワードになっている。また,その後,“アインシュタインの原則”と名付けられた「全体的破滅を避けるという目標は他のあらゆる目標に優位せねばならぬ」ということばと同趣旨のことを湯川秀樹はもっと明快な表現で次のように述べている。「原子力の脅威から人類が自己を守るという目的は,他のどの目的よりも上位におかれるべきではなかろうか」。いずれにせよ,こうしたことが“核時代の平和問題”の第1の課題とされるべきものであろう。そして,国際社会の限界を超えて,たとえば日本国憲法がよって立つ普遍的原理としての“平和的生存権”を実際に全人類的規模で確保,実現していくことによって,“人類共同体”を“リアリティ(実質)”のあるものとして築いていくことが,その解決のための大道であるといいうるであろう。
〔参考文献〕日本平和学会編集委員会編『講座平和学』I ,1983,早稲田大学出版部
なお平和研究については上記学会の機関誌『平和研究』No.1〜9(同)を参照。
飯島宗一・豊田利幸・牧二郎編著『核廃絶は可能か』岩波新書,1984,岩波書店
永井道雄編『核時代の平和をもとめて』1984,国際連合大学・東京大学出版会