●平和運動 へいわうんどう
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平和運動を広義に解釈すれば,平和思想や平和研究・平和教育の動きをも包摂しうるが,狭義には,戦争に反対して平和を要求する実践的な大衆運動を意味する。戦争は,政治の延長として政府がおこすものであるから,民衆の平和運動は反体制的な様相を帯びることが多い。このような平和運動が展開されるにいたるには,2度の世界戦争をまたねばならなかった。真の平和運動の名に価する運動が展開するのは,第二次世界大戦後のことといってよい。【平和運動の論理】平和運動の思想的・理論的よりどころは多様である。古くからキリスト教や仏教など宗教的立場や道徳的立場のものがみられる。今日でも,宗教的・道徳的な平和運動は根強いものがみられる。これらは,精神的・理念的要素を強調するところから,ユートピア的平和運動と呼んでよかろう。クウェーカー教徒の良心的戦争拒否はよく知られている。社会主義者は,資本主義社会の矛盾が戦争の根本的原因であり,戦争は大衆の生活を破壊するものであるとの論理から,戦争を否定する。しかし,社会主義者のなかには,平和の実現を社会主義革命と結びつけて考えるものが多く,平和のための革命,そして革命による戦争を肯定するという自己矛盾もある。また,同じく社会主義といっても,ソ連的な平和主義と中国的な平和主義とのあいだには分裂・対立が存在している。
近年,核兵器の開発が進むに従い,核戦争は人類を滅亡させるものであるとして,この点から平和運動の論理を構築しようとする動きが顕著となった。この考え方の出発点は,1955年に発表されたラッセル,アインシュタインの原則であり,人類の全滅を防ぐことより優位な価値はないとするもので,ヒューマニズム的な立場であるといえよう。米ソの核戦略の谷間にあって,核戦争への危機感が高まるヨーロッパでは,この立場の平和運動が,大衆の草の根運動として高まりをみせている。ヒロシマ,ナガサキの原水爆禁止運動も,この範疇に属する平和運動である。
【第二次世界大戦前の平和運動】平和主義者や反戦主義者は,古くから存在していた。ドイツの哲学者カントやロシアの文豪トルストイ,あるいはインドの指導者ガンディーなどはその最も代表的な人々である。また,第一次世界大戦が始まったとき,ドイツの社会主義者ローザ=ルクセンブルクやカール=リープクネヒトは,はげしく戦争に反対した。しかし,これらの人々の思想は,個人的な意見発表やせいぜい小規模な政治運動にとどまり,大衆の運動にまで発展しなかった。わが国でも,明治・大正期に内村鑑三,幸徳秋水,与謝野晶子,堺利彦,大杉栄などの反戦主義者がいた。昭和期に入ると,平和主義を唱える知識人は少なくなかったが,これらの思想も国民のあいだには浸透しなかったばかりか,国家権力によって厳しい弾圧を受けたのである。やがて,1930年代に入り,ナチスがドイツで権力を握るようになると,戦争の危機を憂える人々の反戦運動がおこった。1932年,アムステルダムで開かれた「戦争反対全党派世界大会」や,1935年,パリでもたれた「第1回文化擁護国際作家大会」などはその現れである。しかし,こうした平和と反ファシズムの運動も,世論のごく一部しか構成することができず,大局は第二次世界大戦へと急傾斜したのであった。
【第二次世界大戦後の平和運動】第二次世界大戦への反省から,世界の民衆の平和の願いは著しく高まった。まもなく東西の対立が表面化し,やがて朝鮮戦争(1950〜53)が勃発して,第三次世界大戦の悪夢が人々をおびやかすようになった。この間,ユネスコは,東西の著名な社会科学者に依頼して,戦争原因の分析を行い,その結論を「共同宣言」として発表し,戦争を拒否する世界の良心に強い感銘を与えた。1949年には,パリとプラハで第1回の世界平和擁護者大会が開催されたが,これは主として社会主義圏の政策を支持し,アメリカの軍事外交政策を攻撃する人々を中心としていた。その後,平和運動はこの線に沿って展開し,世界平和評議会,アジア諸国会議(ニューデリー),アジア連帯委員会,アジア=アフリカ諸国人民連帯会議,アジア=アフリカ連帯委員会,原水爆禁止日本協議会などの結成や,1955年にローザンヌで開かれた世界母親大会のように,アジア・アフリカの民衆や婦人層にもひろがっていったのである。
一方,西側でも民間の平和運動が,1955年の「ラッセル=アインシュタイン宣言」を機として活発化した。東西の科学者や知識人によるパグウォッシュ会議は,戦争反対の世論の盛り上がりに大きな影響を与えた。そのほか,世界連邦運動,アメリカ合衆国における「正常な核政策運動」「婦人よ,平和のために立ちあがれ運動」,イギリスにおける「百人委員会」など,多様な平和運動がおこったのである。1960年代のヴェトナム反戦運動,1970年代の核兵器廃絶運動,1980年代の「草の根」反核・反戦運動は,現実に存在する世界戦争の危機に対する民衆の強い平和運動であるといえよう。
【日本の平和運動】戦前のわが国には大衆による平和運動は,国家権力の弾圧を受けて,ほとんど存在しえなかったといえるが,敗戦を機としてわが国民の平和意識はめざめた。
[1]敗戦直後の平和運動 1947年(昭和22)5月3日,施行された新憲法(日本国憲法)は,平和主義の精神により,非戦非武装を原則としたもので,この憲法を擁護することが,まず戦後日本の平和運動の中心課題となった。やがて米ソの冷戦に続く朝鮮戦争は,わが国の平和勢力に大きな打撃となったが,このなかから,初めて強力に平和を守っていこうとする人々の自覚と運動が芽生えはじめたのである。まず,原子力兵器の絶対禁止を訴えたストックホルム=アピール(1950)に対応して,世界平和擁護者大会の線に沿う平和擁護日本委員会(のちの日本平和委員会)がつくられ,平和運動の一大潮流を形成した。ほとんど同時に,安倍能成を議長とする平和問題談話会が発足し,自由主義者も社会主義者も参加して,講和条約問題を論議し,全面講和・基地提供反対・中立の原則・再軍備反対を主張した。総評も,この4原則を採用し,以後,わが国の平和運動の中心的勢力となった。
[2]サンフランシスコ講和条約後の平和運動 この条約で全面講和はならず,日米安全保障条約のもと米軍基地をかかえたまま,警察予備隊(1950)から自衛隊(1954)へと再軍備の動きが始まった。このような状況のもとで,わが国の平和運動は,憲法擁護・原水爆禁止・基地反対・日米安全保障条約反対・沖縄返還などをスローガンとして展開していった。この動きは,1960年の日米安全保障条約反対運動で頂点に達した。
[3]1960年代後半以後の平和運動 1965年,米軍の北爆開始によって,アメリカのヴェトナムへの軍事介入に反対する声は,わが国でも高まった。また,ヴェトナム戦争の激化に伴い,沖縄が米軍の侵略基地となっているとの認識から,沖縄の祖国復帰運動はヴェトナム戦争反対の平和運動とかたく結びついていった。1965年には,ヴェトナム戦争反対のための国民行動が開始され,また,市民運動としての「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が結成された。革新政党や総評などは,10月21日を国際反戦デーとして,大規模なヴェトナム戦争反対運動を毎年展開した。ベ平連その他の市民団体は,個人の自主性を尊重し,組織よりも運動そのものを重視した点で,わが国の平和運動の新生面を開いた。1967年以降,とくに反日共系学生運動のなかで,ヴェトナムと沖縄が運動の中心となったのである。1968年1月には米海軍のエンタープライズ号入港阻止の佐世保闘争がおこった。しかし,以後,学生運動のなかの諸派の対立からしばしば内ゲバ事件がおこり,これはかえって国民大衆の平和運動にとってはマイナスとなった。しかし一方,沖縄返還(1972)後,1970年代後半から1980年代にかけては,ヒロシマ・ナガサキの原水爆禁止運動が,ヨーロッパの反核・平和運動と呼応して,世界の平和運動の核となりつつある。