●平民 へいみん
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平人とも書く。古代以来の民衆概念。『続日本紀』天平16年(744)2月条に〈汝等の今負う姓は人の恥ずる所なり,所以に厚免して平民に同じくす。但し既に免されん後,汝等の手伎,如し子孫に伝習せずば,子孫弥前姓に降りて卑品に従わんことを欲せん〉とあるが,この平民という用法に注目したい。これは中世文書に多く登場する先駆的用例と考える。『日本後紀』には〈累世平民〉(8巻),〈孚夷之性,本異平民〉(16巻)とあり,夷と平民とはまったく異なるとの認識がある。【古代における平民概念】811年(弘化2)8月11日の太政官符に平民の使用例があって浮浪民を平民なみに庸・調を免除している。これは浮浪人に対する差別苦使政策を改めたもので,この意義は大きい。しかし,漂泊の浮浪人を平民に準じて扱ってはいても,あくまでも平民と区別している。夷狄・俘囚も異質に扱い,俘囚は平民に準じた待遇をしている。平民はあくまでも百姓の徭の基準単位となっていた。したがって平民は家人や奴婢,雑戸,俘囚,夷秋,高麗人などと区別されていたから,平民は,いいかえると公民そのものといってよい。公民=平民であったといえる。私営田領主は公民=平民の権利を侵害し押奪した。平民は田地をそれらより守るため“籠隠公田”し,やがて公田を耕作する平民は“平民百姓”でなくなった。
【中世における平民】平民は神人とは区別され,平民・職人は万雑公事や公事雑役の負担の免除を求める力をもっていた。職人の方が神奴となって,平民より社会的地位は上であると保障されていた。平民は農耕従事が原則である。彼らはけっして武装を禁じられていたわけではない。しかし現実には武装などをしていては公民の努めができないし,公民として暮らすための生業を失っては,日常的に存立しえない。その点では平民にとって職人はうらやましい存在である。しかし,平民のなかに武装するものも現れ,「悪党」に加わっていった。百姓として参加する場合は,武器は自弁であった。また平民は朝夕祓候する下人などを使う。土民は平民の別名で,土民の用例には“土民之習”“土民百姓”などが多い。平民の下人化がすすみ,平民名は拝領の危機にさらされた。しかし平民と土民は必ずしもイコールではなくて“平民之百姓”に対し,土民は準ずるものでしかない。百姓・平民百姓は勤労人民のなかに入る。中世の“平民”は武装移動の自由さえあった。そして自由人で,下人のごとく隷属的ではない。浪人は下人とならず,平民のごときものとなる。ところが室町時代末期になると「土民」という名称が強調された。土民は一揆の中心となり,村落指導層すなわち沙汰人に率いられた地下人であった。このような土民の蜂起がつづくと平民に対し,新平民の用語がみられる。石清水八幡富文書に新平民が出てくる。
【町人概念の形成と平民】宮座の祭祀勤仕者は“平人”を主体としている。平民の自由を認め,町人の楽を認めていた。そのなかで平民の語はあまりみられなくなり,“平百姓”という語が大庄屋,名主,組頭についで用いられている。そうしたなかでは,凡人・常人概念が多くなる。禄なき平民は武士的意味で主君でなく臣でもない。もちろん平民という用語もまったくなくなってはいない。平民は一般の人,普通の人の意味となり,藤信淵が〈予が如きは固より草莽偏野の平民なりとも〉(『内洋経緯記』)というごとく使われた。やがて穢多・非人も準平民になり,新平民となるにいたった。
【明治における平民】明治10年代より20年代にかけて“平民主義”が主張され,「平民新聞」などにうけつがれ,社会主義のイメージから,平民=労働者・農民という意味で使われるようになる。それとともに“人民”概念も新しくなった。平民は自立・自由で士族に対するものであった。そして「人民」と近づく。しかし政府はそれを“衆庶”としての平民として位置づけた。そのためか大正デモクラシーを平民文学の時代という人もいる。
〔参考文献〕芳賀登『民衆概念の歴史的変遷』1984,雄山閣出版