●平氏政権 へいしせいけん
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12世紀末に,平清盛を中心とする平氏一門が樹立した政権。保元の乱で後白河天皇方について功をあげた平清盛は,1159年(平治1)の平治の乱で源義朝を破って源氏の勢力を没落させ,中央政界における唯一の武門としての地位を確立した。その後,清盛は後白河法皇の信任を得てめざましい昇進を遂げ,検非違使別当,権大納言,内大臣などをへて,1167年(仁安2)には従一位太政大臣となり国政の中枢に位置するにいたった。太政大臣の地位はまもなく辞したが,一族をこぞって中央・地方の重要な官職につけ,『平家物語』に〈一門の公卿十六人,殿上人丗余人,諸国の受領・衛府・諸司都合六十余人〉と評されるほどの状況を生み出して権力を強化していった。また,後白河法皇や摂関家と婚姻関係を結び,後白河法皇には義妹滋子(建春門院)をいれてその所生の憲仁親王を擁立して高倉天皇とし,ついで娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮にしてその子安徳天皇を即位させ,摂関家に対しては関白忠通の嫡子基実に娘盛子を配し,基実が没するとその遺領を相続させて摂関家領支配に介入するなど,巧みに勢力の扶植をはかった。だが,平氏政権はこうした中央政界における政治関係のなかでのみ樹立されたのではなく,その独自の権力基盤の形成の仕方に注目する必要がある。権力基盤としては,その武士団のほかに,500余箇所にのぼる荘園と,最終的には30余国に達したといわれる知行国とがあった。これらの荘園や知行国は,平氏が勢力を強めるのに比例して増大させてきたものであり,平氏が荘園や知行国に基盤をおいたことは,形態的には一見,院・摂関などの貴族権門と同じ基盤に立脚し貴族化したようにみえる。しかし,平氏の荘園や知行国に対する支配の内容を詳細に検討すると,これらの支配を通じて現地の武士を平氏武士団のなかに家人・郎等などとして編成しつつ,その権力組織を拡充していく点に独自の特色をもっていたことがわかる。その意味で,荘園・知行国は平氏にとって単なる経済的基盤だけでなく権力基盤でもあったのである。さらに日宋貿易を積極的に推進して巨利をあげた。平氏は,以上のようにして政治権力を強化していったが,それは同時にさまざまな政治的対立を激化させる過程でもあった。平氏一門が,高位高官と多くの知行国を独占し,膨大な荘園を集積したことは,貴族層の地位と経済基盤を侵害することになり,彼らのあいだに反平氏の動きを活発化させずにはおかなかった。1177年(治承1)には,後白河法皇の近臣藤原成親・西光らが京都の鹿ケ谷に会してひそかに平氏打倒の計画をめぐらした,いわゆる鹿ケ谷の陰謀事件が発覚し,清盛はその主謀者を処断してことなきをえたが,後白河法皇との対立は決定的なものとなった。やがて,1179年になると,法皇はまき返しに転じ,平重盛の没後その知行国越前を奪い,ついで平盛子が没するとその遺領を没収して院領とするなどの挙にでた。そこで同年11月,清盛は武力によるクーデタを断行して,院近臣39名を解官し,法皇を鳥羽殿に幽閉するにいたった。この1179年(治承3)11月の政変によって,清盛は後白河院政を否定し朝廷内部における独裁的な権力を樹立したのであり,ふつう,このときをもって平氏政権の確立とみる見解が有力である。だが,これは,平氏一門を中央政界で孤立させ,また武力支配が強化されるに比例して寺院勢力や在地諸勢力とのあいだに醸成されていた政治的対立を一挙に激化させることとなった。1180年5月,源頼政が平氏打倒の兵をあげたのを契機に諸国の反平氏勢力が相次いで蜂起して全国的な内乱へ突入し,清盛は頽勢を挽回するため12月には後白河法皇に院政の復活を要請し,その独裁体制を放棄せざるをえなかった。翌年2月,戦局がしだいに不利になりつつあるなかで清盛は没し,やがて1183年(寿永2)7月,源義仲の攻撃を受けて平氏一門は都落ちするにいたった。