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●平英団 へいえいだん

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 中国広州西北近郊の100余郷の民衆が郷紳の指導下に組織した民兵による反英組織。アヘン戦争中におこった反英武力抗争平英団事件の中心勢力となったもの。

【平英団事件】平英団事件は広東省城北方の三元里でおこったので三元里事件ともいう。アヘン戦争の経過は休戦をはさんで前後3段階に分けられるが,平英団事件はその2段階におけるイギリス軍の広東攻撃に際して勃発した。1841年(道光21)5月26日,イギリスが広東を一挙に攻略しようとする勢いを示したのに対し,防衛にあたっていた清軍の靖逆将軍奕山は和約を申し入れ,軍費賠償金として600万ドル支払うことを条件に広東和約を結び,休戦状態に入った。しかしこのような清軍上層部の屈辱的な態度と,イギリス軍が広東各地で行った掠奪・暴行事件は,民衆のあいだに反政府的・排外的感情をつのらせ,5月30日,和約成立によって撤退を始めたイギリス軍が三元里を通過しようとしたとき,一気に爆発した。反英意識に燃える農民が武装し,平英団の旗幟を掲げてイギリス軍を急襲したのである。激しい交戦の末,平英団の民兵はイギリス軍の一部を包囲したが,しかしイギリス軍の反撃にあっていったんは駆逐された。この民兵に近郷103の民衆数千人が加わり,再びイギリス軍を襲撃。非常事態の発生に驚き救援に駆けつけたイギリス領事エリオットの軍をも,民兵は包囲した。翌31日,イギリス軍指揮官が広州知府余葆純に対し強硬抗議したことにより,知府から解散命令が出され,民兵はようやく包囲を解いた。こうして6月1日,イギリス軍は撤退を完了したが,この3日間にわたる平英団事件に参加した民衆は延べ数万人に達したという。

【社学と反英運動】この事件の背景には,広東省民へのイギリス軍の武力行使に対する反発もあったが,清朝の官軍もまた広東省民衆に対して掠奪・暴行事件を頻発させ,民衆のあいだに自衛手段として民兵を組織しようとする動きがあったことは見逃せない。元来,中国人は郷土観念が強く,事あれば郷村を守って戦う習慣があった。この郷村を中心とする自衛的意識をまとめ,連合体としての民兵組織を結成させたのが社学系の知識人であった。社学とは,義学または書院ともいい,もともとは自然的村落共同体を基盤とした郷村教化機関であったが,郷村の自治機能との結びつきが強くなり,清末になって社会不安が増大してくると,自衛的機能を併せもつ機関となっていた。したがって,この民兵組織はいったん事がおこれば武器をとって立ち上がるが,平素は農業に従事するのが建て前である。社学系の知識人はこの組織を束ねて拡大し,反英武力戦争の中心機関としたのであった。

 これらの自衛的機関のうち,アヘン戦争当時,最も早く組織されたのが平英団を中心とする昇平社学である。昇平社学の設立者は,1842年夏,広東省城北方の三元里・蕭関などの郷村に接する石井の郷神たちであり,周辺の郷村の多くを連合し,広州四郊と近隣の州県に及ぶ反英運動組織の中核的存在にまで発展した。アヘン戦争後の1842年12月におこった外国商館焼打ち事件も,このような反英運動の一環としておこったものである。また昇平社学についで,その組織下に昇平公所も生まれた。この昇平社学・公所は各郷村から丁男を募り,兵練を施して組織の強化をはかり,また基金を集めて官憲の干渉を排した。1843年初めには昇平社学・公所に属する郷勇は数万,基金は3万両に達したといわれる。このほか,東平社学,隆平社学,南平社学などがあり,昇平社学との連絡を保ちつついずれも民兵組織の拠点となった。

 こうした民兵組織の強力なことをイギリス側に認識させた点で平英団事件の影響は大きく,また,社学は第2次アヘン戦争にいたるまでの反英運動の推進力となった。

〔参考文献〕坂野正高『近代中国政治外交史』1973,東京大学出版会