●平安時代 へいあんじだい
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政治史を中心とした日本史の時代区分上の一時代で,平安京に統一政権が存在した時代をさし,通常,平安京遷都の794年(延暦13)から,源頼朝が守護・地頭を設置して政権の基礎を固めた1185年(文治1)までの約400年間をいう。しかし,下限の鎌倉幕府の成立を1183年(寿永2)や1192年(建久3)とする説があり,また上限についても長岡京遷都の784年(延暦3)とする説もある。いずれにせよ,政権の所在地で時代を区分する方法は便宜的なもので,歴史の社会構造的な推移からいえば,この時代は古代末期に相当する。平安時代の約400年間は政治史的観点から前・中・後の3期に区分される。【平安前期】平安京遷都から10世紀半ばの天暦期ころまでをさすが,これを9世紀末までと,それ以後の延喜・天暦期との2期に分けることもできる。平安前期は桓武天皇の律令政治再編の諸改革から,弘仁・貞観・延喜の格式の整備,令義解の撰上・施行,観察使・蔵人所・検非違使などの令外官の設置,変則的ながら班田制の施行,延喜通宝・乾元大宝などの通貨の新鋳,それに国史の撰集など律令政治の再編や強化を狙った諸政策が施行された。しかし政界では,承和の変・応天門の変・阿衡事件などがおこって藤原良房,藤原基経による摂政関白が誕生し,漸次,貴族政治が天皇権力を圧倒しはじめたが,基経の死後,宇多天皇は摂関・太政大臣を置かず,菅原道真を重用して天皇権力の回復をはかり,醍醐天皇の延喜の諸改革は律令政治の維持を企図したものであった。しかし地方では荘園の増加や農村の変貌,地方政治の乱れ,治安の悪化などによる社会矛盾が顕在化し,承平・天慶の乱に象徴される武士団の勃興がみられた。
【平安中期】10世紀後半から11世紀半ばすぎまでの約100年間をさし,藤原道長を頂点とする摂関政治の全盛期である。967年(康保4),藤原実頼が関白についてから,藤原氏の氏長者が代々摂政・関白になることが慣行化した。摂関という制度は,天皇との姻戚=ミウチ関係を通して天皇権力を自己の家父長権のなかに包摂し,その家父長としての地位を制度上に位置づけ,体制化したものである。その権力は天皇権力に依存する特権貴族が構成する政権である。政務は一応,太政官の公卿の合議で行われたが,その内容は著しく形式化・空洞化したものであった。摂関家権力の経済的支柱は膨大な荘園であった。在地領主や中小貴族はその所領を権門に寄進して保護をあおぎ,まだ権門自らも積極的に荘園の寄進を受けて,巨大な荘園領主となった。こうした摂関政治の最盛期は11世紀初頭の道長の時期である。1027年(万寿4),道長死去ののち,その子藤原頼通が関白の地位を保ったが,自らは天皇の外祖父となりえず外戚関係を軸として保持されてきた摂関の権力はしだいに空洞化してきた。ことに1068年(治暦4),即位した後三条天皇は藤原氏を外戚としない天皇であり,大江匡房らを登用して国政に意を注ぎ,荘園整理令を発して全国の荘園を調査し,その増加に歯止めをかけ,摂関家もその影響を受けた。次の白河天皇も摂関家と外戚関係はなく,親政を行った。
【平安後期】1106年(応徳3)の白河院政の成立から平安時代の終末までのおよそ100年余りの時期をさすが,平治の乱(1159)以後の約30年間を平氏政権期として小区分することもできる。白河天皇は譲位後も上皇として院において政権を握り,鳥羽上皇・後白河上皇もこれを継いだ。この院政は摂関家との姻戚関係が絶えたあと,天皇の尊属親たる上皇が家父長権の行使によって実現した専制的政治形態である。太政官政治は空洞化して実質的な政務は院庁の院司の手に移り,院の信任を得た近臣集団は従来の階層や序列にとらわれずに重用された。彼らの多くは事務に練達した実務官僚であり,財力に富む受領層であったが,白河上皇はまた武力の強化をはかり,主として畿内・近国に成長した武士団を中心として北面の武士を組織した。すなわち清和源氏と桓武平氏の力が大きく,源義家や平正盛・忠盛が活躍した。次の鳥羽院政のもとでは,院とその周辺に莫大な荘園が集中し,院は巨大な荘園領主となった。このころから院と天皇との対立,貴族内部の対立などが顕在化し,1156年(保元1),鳥羽上皇の死を契機として保元の乱がおこり,その後の諸対立から1159年(平治1)の平治の乱となった。これら2度の内乱は,皇室・貴族の政権内部の矛盾が武士の力に依存しなければ解決できないことを示した。後白河上皇は平清盛の武力に依存して勝利を得たのであるが,これによって清盛は貴族政権のなかで確固たる地位を占め,1167年(仁安2),太政大臣に昇り,やがて外戚となった。上皇と清盛の対立はしだいに顕在化し,ついに1179年(治承3),清盛は上皇を幽閉して平氏政権(六波羅政権)を樹立した。平氏政権は最初の武士の政権であったが,貴族色が強くてその基盤は弱く,広汎な武士を組織できず,また南都北嶺の寺院勢力との協調にも失敗して狐立化した。やがて1180年(治承4),源頼政の挙兵を契機として諸国の源氏は源頼朝のもとに結集し,その主導のもとに1185年(文治1),平氏は滅亡し,頼朝は全国に守護・地頭を設置して,その政権の基礎を築いた。
【弘仁・貞観文化】文化史上の平安時代の時期区分は政治史の区分とやや異なるが,対応する側面も多い。平安前期,ことに10世紀初頭ころまでの文化を通常,弘仁・貞観文化と呼ぶ。この時期の宮廷では,奈良時代から引きつづき中国風の儀礼・学問が重んじられ,とくに嵯峨朝を中心に漢詩文が全盛となり,『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などの勅撰漢詩文集が編集され,学問も中国の文学・史学を中心とする紀伝道(文章道)が発展し,貴族の教養ともなった。仏教では桓武天皇による仏教界の改革のあと,唐から帰朝した最澄が比叡山を中心に天台宗を樹立して南都仏教から独立し,空海も唐から真言宗を伝え,高野山に金剛峯寺を開き,密教の体系化につとめるとともに加持祈祷などによって貴族社会に密着した。天台宗も円仁・円珍によって密教化し(台密),王法擁護・加持祈祷などによって貴族仏教として発展した。美術界でも弘仁・貞観期は唐様式の影響が強く,書道は三筆に代表される唐様であり,絵画では曼荼羅,彫刻では密教諸尊の造仏にみられるように密教美術が中心であった。
【藤原文化】10世紀以降,11世紀半ばころまでの文化を藤原文化と呼ぶが,政治史上の平安中期,すなわち摂関政治の時期にほぼ対応する。この時期,上級貴族は宮廷・摂関家を中心に高度の文化を発展させたが,この一大特長は和風すなわち国風文化である。これは894年(寛平6)の遣唐使廃止に象徴される中国との正式交渉の途絶が原因であるが,前代以来の外来文化の咀嚼の結果でもある。この時期,漢文学はなお貴族の教養として重んじられてはいたが,一方仮名文字が発明され,それは当初の女性用からしだいに男性にも普及した。仮名の使用はまず和歌の発達と深い関係をもち,『古今和歌集』以下の勅撰和歌集が編集され,また物語文学の発達にも寄与した。すなわち『伊勢物語』のような歌物語から,遂には『源氏物語』のような一大傑作が出現し,『かげろふの日記』『更級日記』などの日記文学,『枕草子』などの随筆が著され,後宮に仕える女性が大きな役割を果たした。こうした文学の背景となった貴族の生活は,寝殿造・直衣・狩衣・十二単衣に象徴される日本的様式のものであり,年中行事・遊戯にいたるまで和風美に富むものであった。仏教界では社会の変動を背景に浄土信仰が発達し,聖(ひじり)による山林修行や念仏がひろがり,源信の『往生要集』は貴族の浄土信仰の教典となった。美術界でも阿弥陀堂の造立に伴って優美な阿弥陀像や来迎図のような和風仏画が盛んであった。12世紀の貴族文化は光彩を失ったが,絵巻物の展開,説話文学の発達,地方文化の発展などが特筆されよう。
〔参考文献〕藤木邦彦『日本全史』3 1955,東大出版会
藤木邦彦・井上光貞編『政治史』I 体系日本史叢書 1965,山川出版社
村井康彦『平安貴族の世界』1968,徳間書店