●部 べ
アジア 日本 AD
「部」は古訓では「トモ」ともいう。部の起源は,古代朝鮮に求められるようであるが,大化前代,日本に渡来した技術者の管理にもとづく名称であったと想像される。5世紀代ごろより,朝鮮半島から,朝鮮の民や中国移民が日本に渡来することが多くなった。これらの人々のなかには,新しい先進技術を身につけている人達も含まれていた。それを独占的に確保することは,大和政権にとって最大の関心事であった。なぜなら経済開発や,軍事的優位に欠かせぬことだったからである。そのため,技術者を積極的に畿内に集め,保護を与えた。とくに次の時代に,父が伝えた技術を確実に伝承させなければ,貴重な技術は一代で滅んでしまう。そのため,祖先が伝えた技術を,その渡来人の子孫に義務的に伝承させなければならなかった。そのような集団が,おそらく「部」の起源であったろう。戦争用の武具や,大王・貴族の儀礼用具や奢侈品,先進的な農具類の手工業品が当面の対象であった。鍛冶部(かぬちべ)・服部(はとりべ)らがそれである。このように,渡来人を中心に部が編成されると,日本人の職業集団もしだいにこれにならって,部に組織されていった。山部・海部などのほかに,祭祀用具を造進する忌部(いんべ),土師器生産に従事し葬礼にも関与した土師部(はじべ),玉類の生造にあたった玉造部(たまつくりべ),弓削部(ゆげべ),矢集部(やはぎべ),楯縫部(たてぬいべ)らの武具生産集団などである。彼らは伴造に統率されて,大和朝廷に奉仕していた。大和政権がしだいに整備されるにつれて,地方豪族は「県」(あがた)を献じた。その地を与えられた皇族は,その民を部民とした。これが名代・子代(なしろ・こしろ)の部民である。また漢(あや)氏や秦(はた)氏を中心に朝廷の財務にあずかる人々が必要となり,蔵部(くらひとべ)や馬飼部,史部(うまかいべ,ふひとべ)などのように官司制的な職掌集団も出現した。また,外交にあたる吉士(きし)集団,訳語(てさ)集団なども組織されていった。これに伴って5世紀末ごろより,新来の才伎(いまきのてひと)といわれる新しい技術集団も渡来してきた。「雄略紀」に〈東漢直掬ニ命セテ,新漢(いまきあやの)陶部高貴,鞍部堅貴,畫部因斯羅我,錦部定安那錦,訳語卯安那ラヲ上桃原,下桃原,真神原ノ三所ニ遷シ居ラシム〉とあるのは,それである。ここにみえる新漢の集団,陶部(すえつくりべ),鞍部(くらつくりべ),錦部,訳語らは,5世紀の初めごろ渡来してきた阿知使主(あけのおみ),都加使主の集団に対して,新しい集団という意味で新来(いまき・いままいり)と称された。彼らは,大和国高市郡に配され,東漢氏(やまとのあやし)の管掌下に入った。また「雄略紀」には,身狭村主青(むさすぐり)らが,呉から献上された手末の才伎(たなすえのてひと),漢織,呉織,衣縫(あやはとり,ふれはとり,きぬぬい)の兄媛,弟媛らをつれて住吉の津に帰ってきたが,飛鳥の桧前に安置した弟媛をもって漢衣縫部とし,漢織,呉織をもって飛鳥衣縫部,伊勢衣縫部の祖となったと記している。また,同じく「雄略紀」には,〈秦ノ民ヲ臣連ら分散(わか)チテ,各欲ノ随ニ駈使(つかまつ)ラシム。秦造ニ委ニシメズ。是ニ由リテ,秦造酒・甚ニ以ツテ憂トシテ,天皇ニ仕エマツル。天皇,愛(うつくし)ビ寵(めぐ)ミタマウ。詔シテ,秦ノ民ヲ聚リテ,秦酒公ニ賜フ。公,仍リテ,百八十種勝テ領率イテ,庸・調ノ絹ヲ奉献リテ,朝廷ニ充積ム。因リテ姓ヲ賜ヒテ,禹豆麻佐(うずまさ)トイフ。〉とあり,秦部を集めて,秦造酒を管掌者とし,絹を貢納せしめている。このように雄略朝では,新しい渡来人の部民制の強化がめだつ。一方,大和政権が全国統治の過程で,朝廷領たる屯倉(みやけ)を各地に設置していくと,それを耕作するものとして「田部」が置かれた。「欽明紀」に〈田部ヲ量リ置クコト,其ノ来ルコト尚シ。年甫メテナ十余,籍ニ脱リテ課ニ免ルル者衆シ。膽津(いつ)ヲ遣シテ,白猪田部ノ丁・籍ヲ検エ定ムベシ〉と天皇が王辰爾(おおしんじ)の甥の膽津に命じている。一方,朝廷に仕える有力な豪族層も,自らの名を冠した部民を支配していた。大伴部,物部などは,広く全国的に分布している。いわば軍事力をもち部民制の上に立脚して権力を掌握したのが,これら大伴・物部氏であった。それに対し蘇我氏も蘇我部を置いたようだが,もはやこれら部民制よりも,新しい官司制の上にたち,渡来系氏族に立脚し,財政や外交をつかさどることによって勢力を拡大する方向に進んだ。その結果,旧い部民制はしだいに崩壊していったが,律令時代に入っても,特殊な技能者は「雑戸」(ざうこ)や品部とされ諸司に配されて残された。〔参考文献〕関晃『帰化人』至文堂
平野邦雄『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館
井上光貞『日本古代史の諸問題』思索社
直木孝次郎『日本古代国家の構造』青木書店