●文禄・慶長の役 ぶんろく・けいちょうのえき
アジア 日本 AD1592 室町時代
1592年(文禄1)と1597年(慶長2)の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮・明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬申倭乱・丁酉(ていゆう)再乱と称し,明では万暦朝鮮の役と呼ばれる。秀吉の明国征伐計画の発端から,1598年(慶長3)秀吉の死後,その遺命によって停戦協定が結ばれ,戦いの終結まで20年余の長期にわたる。その影響は国内またアジア史の展開においても,広範で深刻なものを残した。【秀吉の外征計画】九州を最後に日本全国の統治を完成した秀吉は,海外に目を向け,アジア諸地域の侵略支配の策をめぐらした。その計画の目的は,〈三国(日本・中国・インド)に佳名を顕わす〉(朝鮮に送った外交文書)とあるように,単に自らの名声を後世に伝えるため,この無謀な侵略戦争を押し進めたが,封建君主として領主階級結束のための領土拡大が目的でもあった。秀吉は1586年(天正14)9月,宣教師ガスパル,コエリョらが大坂城を訪れたとき,対外出兵の意図を語り,軍艦の周旋を依頼し,翌年6月には対馬の宗義調(よししげ)を通じて朝鮮に入貢を命じ,1588年には,義調の子義智と僧玄蘇を朝鮮に遣わし,国王の来朝を要請している。宗氏は朝鮮貿易を財政的基礎としていたので,極力出兵の回避をはかり入貢命令は拒否されたものの,国王来朝は朝鮮通信使の派遣にすりかえることで実現した。朝鮮は征明構想において,侵略経路として重要な位置を占めており,〈仮道入明〉(征明のため道を借りる意)の名目で紆余曲折しながら交渉は進んだ。秀吉は積極的に外征準備を整え,1591年8月には〈唐入り〉(征明)の決意を発表し,翌年3月1日を出陣期と決めた。
【朝鮮出兵と日明交渉】肥前名護屋に本営を置き,総勢15万8000の兵を9軍に編成し,1592年4月,小西行長,宗義智らの第一軍は対馬を発して即日釜山浦にいたり,ついで加藤清正,鍋島直茂らの第二軍も上陸し,戦場を開いた。日本軍は三方面に分かれて京城にむけて進撃し,五月にはこれを占領した。各軍は朝鮮八道分治の計画により,第一軍は平安道をめざし,第二軍は咸興道に進んだ。第一軍は黒田長政らの第三軍と合して平壌を占拠,朝鮮国王宣祖は遼東に逃がれ,宗主国明に援兵を求めた。翌年1月,明の提督李如松が4万の大軍を率いて朝鮮に入り,平壌を奪回し京城に迫ったが,碧蹄館の戦いでは小早川隆景らの奮戦にあって大敗し,平壌に退いた。やがて再び日明の講和交渉が開かれ,4月には龍山の停戦協定が成立し,秀吉はこれにもとづき,明帝の女を日本の后妃に迎える,南朝鮮の四道を日本に割譲するなどの講和条件七項目を決定した。しかし,中間にたった小西行長や明の沈惟敬の暗躍により,秀吉の要求は明帝に通じぬまま,1596年(慶長1),明の講和使節が渡来した。秀吉は協定の不履行,条件の不備,さらに交渉の内情を不満として,翌年2月,14万の軍兵を再度起し南朝鮮を制圧した。しかし,明が陸海から大軍を出して朝鮮と連合することで戦線はいきづまり,清正の蔚山(うるさん)籠城の苦戦,島津義弘・忠恒の泗川(しせん)での奮戦など,戦局は必ずしも好転しなかった。日本軍が各地で苦戦をしいられ,緊張した情勢のうちに,1598年8月に秀吉が死に,遺命によって明軍と停戦協定を結んで全軍撤収した。
【戦役の影響】秀吉は,国内での過剰な軍事力を東アジア地域統合のための戦いへふりむけることで,秀吉政権の確立と支配体制の強化を外征に求めたのであるが,渡航諸将はもとより武士だけでなく,農漁民など全国的に民力の消耗が大きかった。一兵をも損傷しなかった徳川家康にとって統一政権確立の機会がおとずれた。朝鮮・明にとっても多大な勢力を消費したことで,代わって清が明および朝鮮を征服する契機ともなった。アジア史の変革要因となったと共に国内的には朝鮮より典籍や印刷・陶業の新技術がもたらされ,日本近代文化の内容を豊かにしたことなどは注目すべきである。
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