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●文明史 ぶんめいし

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 文明という語は,もと『周易』乾,文言伝の「天下文明」に由来し,日本に伝えられて,文運の盛んな有様という意味で,近世の儒者・蘭学者にもときおり用いられた。それが幕府最末期の洋学者によって英語のシビリゼイション(ラテン語に由来)の訳語として採択され,とくに福沢諭吉の『西洋事情』にその内容が説明されて以後,ひろく用いられるにいたったものである。そして明治期一般には,歴史叙述において,そのような文運の盛んな有様,あるいは,野蛮・未開・文明という3段階説にもとづく文明の世の状態に歴史的説明を与えるものが文明史,あるいは人智の開けすすむことを意味する開化史と呼ばれることとなった。もちろん,初めは,History of civilization,また Histoire de la civilisation の訳語としてであった。

【西欧の文明史】シビリゼイションということばが名詞としてフランスやイギリスで定着したのは18世紀後半以後であるが,その直前に,文明史の創始者として,ふつうにはヴォルテールがあげられ,その『諸民族の風習および精神論』(1756〜69)は,事実の単なる探究をすてて,文化の諸要素を歴史の全体に整理,概観しようと試みた労作なのであった。そして,この時期のフランスの啓蒙派の合理主義や進歩の思想,さらには人間性の同一性の観念は,やがてイギリスやドイツの歴史家たちにも影響を及ぼし,フランスにおいてもこの世紀の末にコンドルセの『人間精神進歩の歴史的素描』(1793〜94)が遺された。しかし,“理性の世紀”と呼ばれた18世紀に代わって“歴史の世紀”の19世紀が始まると,この世紀の科学の進歩とロマン主義思潮や綜合的理論の発展を背景にして,いわば本格的な文明史が,数は少ないが現れた。ギゾーの『欧羅巴文明史』(1828のソルボンヌ講義)と,バックルの『英国文明史』(1857〜61)がその典型である。ギゾーの研究はシャトーブリアンのロマン主義歴史意識からフェステル=ド=クランジュの宗教・制度史的歴史研究にいたる19世紀フランス史学者たちのうち,文明の要素の分析を基礎に歴史を描いた人々に劣らない内容をもっていた。一方,独学の史家バックルは,コントの実証哲学の理論を導入して,従来の歴史叙述の非科学性を徹底的にあばき,自然条件の影響を重視して,歴史を一つの科学につくりかえようとし,ともに世に歓迎された。しかし後者はドイツ正統史学の系を継ぐドロイゼンが,「彼らは歴史を科学に高めたのではなく,いたって自然科学の埓内においた」と批判したように,まもなく学界からはその位置を失っていった。後述するように,明治時代に流行した日本の文明史は,上記の二つの文明史の直接の感化のもとに成立したのである。

【文明史と文化史】このような傾向に対して,19世紀のドイツには新しく文化史の主張とその研究が顕著であった。文明と文化については,昔から議論が多いが,ふつうは文明とは,物質的・技術的文化をいい,文化とは,おもに内面的・精神的文化をさす,とされる。しかし,フランス,イギリス,アメリカではそのような区別はしないことが多い。そしてドイツではフンボルトのように,クルターにより深い意義を考えるのが一般である。文化史は,政治史がおもに国家・政治・戦争などに重点を置くのに対して,生活・思想・宗教・芸術などの社会経済(これはあとで独自に発展する),文化一般をおもな対象として構成される。このような歴史は,ドイツではすでに18世紀にウィンケルマンの美術史に先駆があったが,19世紀にはリールの農民社会についての民俗学的考察や,フライタークの『ドイツの過去諸像』(1859〜66)にみる市民文化の歴史への注目などに,その傾向が現れた。同じころ,スイスのブルクハルトの『イタリア=ルネサンスの文化』においては,政治的出来事の因果関係はすてられ,歴史における恒常,類型,普遍なるものが求められた。19世紀末から20世紀にかけて,ランプレヒトの社会心理学的方法を基礎にした文化史の主張に対しては,数々のドイツ政治史家からの批判がつづき,長い論争が繰り返された。この論争の過程で,政治史と文化史は,その歴史の対象を異にするだけでなく,個人の行為,個性のはたらきの意義をみいだすのか,人間性一般,状態や普遍や類型を探るのかという,歴史学の方法論の相違が明らかとなる。ランプレヒトの理論と主張は『文化史的方法』(1900)や『近代歴史学』(1904),英語版(1905)に集約される。さらにオランダのホイジンガ(Huizinga)は,主著『中世の秋』(1919),論文「文化史の課題」(1929)などに生彩ある文化史の内容と理論を公にした。イギリスのトインビーの,生涯の労作『歴史の研究』(1934〜61)はその独特の文明の類型と比較と歴史の理論およびそれらの具体を示して,さまざまな影響を与えている。そして政治史と文化史は,対立するのでなく,いまその統一と新たな構成の理論と方法がもとめられているのである。

【日本の文明史】文明開化の声が高まった明治初年,ギゾーとバックルの二つの文明史が喜びをもって迎えられた。福沢諭吉の『文明論之概略』(1875,明治8)は,この両者の直接の感化のもとに書かれ,旧来の東洋風政治史観を否定して新しい文明史観を提唱した。田口卯吉の『日本開化小史』(1877〜82,明治10〜15)は,バックルに加えてスペンサーからも学んで,具体的な文明開化史風歴史叙述を確立させた。この両者にみられる文明史観とは,歴史において政権の変遷ではなく社会の進歩,事実の集積よりも因果関係を考えること,また歴史の動因として,人の智徳,あるいは貨財の進歩を指摘し,社会進歩の定則を考察する,という点にあった。これ以後,日本文明史開化史と呼称するものが,次々に公刊された。北川藤太日本文明史』(1878),渡辺修次郎明治開化史』(1880),藤田茂吉文明東漸史』(1884),室田充美『大日本文明史』(1884),物集高見『日本文明史略』(1886〜87),羽山尚徳大日本開化史』(1888),福田久松大日本文明略史』(1891),吉田利行・郡保宗『帝国文明史』(1892),おくれて大町桂月日本文明史』(1903)。しかし,その多くは書名と中味が合致せず,『日本開化小史』の卓絶さに及ぶものもなかった。いたって,同時代の三宅米吉日本史学提要』(1886,明治19),杉浦重剛そのほか哲学館の『日本通鑑』(1887〜90,明治20〜23),嵯峨正作日本史綱』(明治21)のような旧東洋風書名のものに,それぞれ文明史風新史観,文明史事項の補加,文明史風叙述の加味などが注目されるのである。しかし大正・昭和前期以後の日本文化史は,その性質と源流を異にする。

〔参考文献〕G. P. グーチ,林健太郎・孝子訳『十九世紀の歴史と歴史家』筑摩書房

小沢栄一『近代日本史学史の研究・明治編』1968,吉川弘文館