●文明 ぶんめい
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文明には「より発達した文化」という意味と,「文化は精神的,文明は物質的」という用法とがある。明治にはやった“文明開化”は,本来中国の優れた文化を周囲の劣等民族(東夷西戎南蛮北狄)に与えて啓蒙する意味であったのを,西欧先進諸国の文化の摂取によって,日本を進歩させる意味に使ったものである。フランスの百科全書派や F.ヴォルテール(1694〜1778)らは,“文明”を“中世的野蛮”に対比させ,進歩の観念にもとづく啓蒙の意味に解した。人類学においても,後述するように“原始文化”や“未開社会”と対比させた。しかしドイツ系の文化哲学や文化社会学は,文化が文明より高尚であるという哲学的立場をとり,文明が物質的形成物を含む外的な存在なのに対し,文化は内的な精神的形成物であると解した。M.ウェーバー(1868〜1958)は,経済的・政治的・事象からなる“社会過程”と直線的に進歩する技術的手段の合理化過程である“文明過程”に対して,宗教や芸術において1回的に生起する“文化運動”を区別すべきだと主張した。【野蛮・未開・文明】英国社会学の創始者といわれる H.スペンサー(1820〜1920)は進化論者 C. ダーウィン(1819〜82)より,先に“社会進化”ということばを提唱し,さらにダーウィンの生物進化論の影響下に〈人類の生活は単純で未分化で等質な形態から,より複雑で構造化し統合された形態へといくつも段階をへてきたのであり,その種々の段階で,進化の過程から取り残された未開社会を比較研究することで原始社会の種々相がわかり,進化の歴史が解明できる〉という“社会進化論”を創始した。この歴史観は19世紀欧米の社会科学に決定的な影響を与え,主要な業績のほとんどが社会制度進化史の再構成であるという状況を生んだ。アメリカの社会進化論者 H.モーガン(1818〜81)は『古代社会』(1877)において,人類の歴史が「野蛮→未開→文明」という段階をへたと提唱した。
I 野蛮時代
[1]下期野蛮時代 人類誕生から次の時代まで
[2]中期野蛮時代 魚食と火の使用の始まり以後
[3]上期野蛮時代 弓矢の発明以後
II 未開時代
[1]下期未開時代 土器の発明以後
[2]中期未開時代 東半球では家畜の飼育,西半球では灌漑耕作によるトウモロコシなどの栽培の始まり以後
[3]上期未開時代 鉄鍛冶・鉄器の使用の始まり以後
III 文明時代
文字の発明と使用のはじめから現代まで
モーガンは,人類の結婚形態が 1.同一集団内兄弟姉妹の乱婚から,2.兄弟・イトコとその妻たち,姉妹・イトコとその夫たちのあいだの群婚(プナルア婚), 3.時々相手が変わる男女の一対婚, 4.一夫多妻婚, 5.一夫一婦婚という段階を通って進化したと主張した。K.マルクス(1818〜83)はモーガンの著作を熟読し,これを再解釈した著作を意図したが健康を害して果たさず,彼の死後 F. エンゲルス(1820〜95)がモーガンの進化史を唯物史観によって解釈しなおし,『家族・私有財産・国家の起源』(1884)を完成した。スイスの法制史学者 J.バッハオーヘン(1815〜87)は,モルガンの説に反対し,『母権論』(1861)を著して,人類の結婚形態は,乱婚から母系制母権制をへて父系制父権制に進化したと主張した。上記エンゲルスの著書には,この影響が認められる。英国の人類学者 J.フレイザー(1854〜1941)は『金枝篇』(1890)において,外界についての客観的理解の程度に応じて,人類の関心は呪術(マジック)から宗教をへて科学へと進化したと考え,米国の人類学者 E.タイラー(1832〜1917)は,『未開文化』(1871)で人類の信仰の対象がアニミズム(有霊観)から幽霊・精霊・守護神・群神と進化し,多神教をへて一神教にいたると主張し,それに応じて死者の居住地も,地上から冥府をへて天国に変わると説いた。ドイツの法学者 H.メーン(1822〜88)は『古代法』(1861)において,野蛮から文明にいたる歴史のなかで社会の単位は家族から個人へ,社会体制の基礎は親族から地域へ,財産所有形態は共有から私有ヘ,集団の結合原理は親族間の義務から個人間の契約へと進化したと主張した。
【歴史と“進歩”】「文化」についてのタイラーの定義にもみられるように,19世紀の社会進化論者にとっては「文化」と「文明」は同義語であり,人類が「文明人」になる進化の過程が彼らの関心の対象であった。彼らにとって「進化」は「進歩」であり,進歩の最終点には19世紀の欧米社会があった。欧米社会が,すべての点で最も質が高く優れて好ましく,これを物差しとして他の社会事象の価値判断した。したがって科学は呪術より,一夫一婦婚は一夫多妻婚より,機械産業は農耕・牧畜より,父系制は母系制より,それぞれより高度で高級で道徳的にも質が上であると考えた。社会進化論の史観に対し,ドイツの人類学者 F.グレブナー(1877〜1934)やW.シュミット(1868〜1954)を中心とするウィーン学派は“文化伝播説”を唱え,人類の文化は,地球上いくつかの限られた地点に発生・発展し,人々の移動や交易によって伝播し,接触し,混合してきたと主張した。イギリスでは G.スミス(1840〜76)や W.ペリ(1868〜1949)らが,エジプトが人類の文化の唯一の原点であると極論して批判された。しかし文化伝播の実証的研究は現在も行われており,実証的根拠に乏しい19世紀の社会進化史は,すでに過去の遺物となっている。しかし,歴史を“進歩”の過程と考える学者は,20世紀にも現れつづけた。ドイツの社会経済学者 M.ウェーバー(1864〜1920)は,人類の歴史を支配形態と行政機構の“合理化”過程と考え,その過程に応じて指導者の型も,人格の魅力で人々をひきつける「カリスマ型」,支配の正当性を相続する「伝統型」,合理化された政治過程をへて地位を獲得し,官僚機構を使って治める「合法型」と変化すると指摘した。F.テニス(1855〜1936)は,社会形態が歴史のなかで,家族・親族・氏族や農村を単位とし,直接的・個人的で自然な人間関係にもとづく“ゲマインシャフト”から,人間関係が契約にもとづき人工的で非個人的な“ゲゼルシャフト”に移行すると説いた。フランスの社会学者 E.デュルケーム(1858〜1917)は,人類の進歩に伴い「分業」がすすみ,社会は異質な部分を多く含んで複雑化すると主張した。歴史を何らかの進歩の過程とみる楽観論に対して,たとえばドイツの哲学者 O.シュペングラー(1880〜1936)は,すべての文明が誕生―青年期―成熟期―老衰期―死という変更不可能なライフ=サイクルをへると考え,西欧文明はすでに老衰期に入っていて,やがて終焉のときがくるという悲観説を唱えた。文明史への関心は,A.トインビー(1889〜1975)にもみられ,彼は文明の衰退を疲弊の過程と考えたが,衰退よりも勃興の過程に関心をもち,文明は人類が未曾有の困難に遭遇し,従来になかった努力をすることによっておこると考えた。カナダの史家 W.ニール(1917〜)は,外国人による脅威に対抗する人々が文明を発達させ,その文明には脅威となった外国人の技術・制度・思想が吸収されると主張した。19世紀の社会進化論は過去の遺物となったが,西欧文明が進歩の模範であるという西洋中心思想は,西洋人のあいだに根強く残っているだけでなく,非西欧社会の知識層にも浸透している。西洋諸国に追いつくことが,明治以来の悲願であった日本も例外ではない。
【都市革命】モーガンは『古代社会』のなかで“文明”の始まりの規準を文字の発明としたが,都市の形成には触れなかった。それから約60年後,旧世界考古学の権威 V.チャイルド(1892〜1957)は,『文明の起源』(1936)のなかで,文字をもたぬ農耕民がそれまで住んでいた村や町を離れて,より大きく複雑な“文明社会”を形成する過程を“都市革命”と呼び,この過程が世界の数カ所において,歴史の異なった時点で独自に生じたことを指摘した。細かくみればそれぞれの過程は同一ではないし,都市形成と文字の発明使用が,同時に生じなかった場合もあるが,都市の形成が,まったく新たな社会経済制度の急速な出現をもたらしたのは明らかで,都市革命は人類の歴史の上で,新石器時代革命(食糧生産の始まり)と産業革命に匹敵するともいわれる。“文明”の規準として V.チャイルドがあげたのは,文字の発明使用と都市の形成のほかに,日常の食糧生産労働に従事する必要のない専門職層と支配階級の出現,社会的剰余物を上層階級の手中に収めるための税制や朝貢制度,支配者や支配者の崇拝する神々に献じられた記念碑的公共建築(王宮・墳墓・神殿・寺院など),予見能力のある科学の発達,広範で定期的な外国貿易,政治機構などをあげた。これらがいずれも,一朝にして出現しないことからも明らかなように,文化は歴史のある一時点で,突然“文明”段階に入るわけではなく,ある期間かかって成立する変化の過程である。チャイルドによれば,都市革命を生ずる主要因は,技術の発達累積と,新たに出現する階級社会による余剰食糧の貯蔵と利用であった。これに対して,農耕が広範囲に及ぶにつれて,灌漑用水路の計画と建設と維持統制が不可欠となり,その技術と知識をもつ専門家集団が政治的・経済的権力を独占し,余剰食糧をその手に収めて支配機構をつくりあげたという意見もあった。しかし,この「水力学説」は,灌漑組織の建設と維持が村レベルの協力でも可能であり,必ずしも権力者の統制を必要としないという史実を軽視していると批判された。最初の文明は,前3000年前後の数世紀メソポタミア地方に出現し,ほとんど同時期にエジプトにも栄えた。その500年後にはインダス川流域に,1,500年後には中国北部に,それぞれ文明がおこったが,考古学的研究が明らかにした限り,いずれもチャイルドの主張どおり都市革命といわれるものであった。中南米においても,14世紀から16世紀にかけてメキシコに栄えたアステカ文明,15〜16世紀中央アンデスにおこったインカ文明,10世紀から16世紀までグァテマラを中心にひろがったマヤ文明のいずれもが広大な都市や宗教建築を伴った。ただし,中南米最古と考えられるオルメカ文明(前800〜前400)には,広大な寺院の建築はみられても都市の形成は生じなかった。文明の共通特徴の確認は,新旧両世界の考古学的研究の課題の一つである。
【文明の基準】上記のように人類学では,文字をもたぬ文化や農耕民社会に対して「異質な要素を含み複雑な社会構造をもつ文化」を,とくに“文明”と呼ぶ。文明社会は分節化し成層化され,その文化は種々の下位文化を含む。文明の特色は,すでに上のいくつかに記したが再整理すると,[1]開墾・干拓,土壌管理,灌漑組織の建設維持などによる農業技術の進歩と余剰食糧の生産と確保,[2]冶金技術,[3]動物の労力と車と帆の利用による交通手段の発達(これを欠いた文明もあった),[4]職業の専門化と貴賤の分化による分業と,それにもとづく経済関係,支配階級による生産手段(労働力を含む)の規制,[5]生産者が税として納める余剰物質の支配階級による集積と再配分,公共事業への労働力の配置,[6]物品と労力の直接交換に代わって発達した交換網(外国貿易を含む)の商人階級,または国家による統制,[7]立法行政機能を自らの手に集中化した専門家集団が独占する政治機構。種々の強制手段に支えられた支配階級の権力。血統や親族関係にもとづく部族集団ではなく,社会階級と居住地区を基盤とする国家,[8]僧侶の聖職位階制,寺院・神殿・国家が関与する祭式,[9]階級組織に組み込まれ,きわめて人間的に解釈された神々など超自然界についての観念体系,神々の被創物としての人間,宇宙の調和の表現としての社会秩序といった世界観,[10]思弁的思考の発達,過去と未来についての意識の拡大,算術・幾何・天文学など予見能力をもつ精密科学の発達,文字と数字の使用,時間と空間と重量の測定法の標準化,[11]高尚な工芸品・芸術品の発達。これらの業績は,余剰生産物の再分配と貯蔵によって生産労働から解放されたり,地租に生活を支えられた僧侶や貴族階級という新階級の専門家の創造的活動の所産である。政治や建設などに従事した実務家による発見や発明もあったが,それらの知識の完成と抽象的観念の究明は,直接実用には役立たぬ作業に従事して,創造的余暇を楽しめる知識層の仕事であった。このような文明の栄えた都市と,その生活を支えていた周辺の町や村との社会的関係や都市の文明と,村や町に前からつづいていた庶民文化との関係などの究明は,今後に残された課題である。
〔参考文献〕祖父江孝男『文化人類学入門』1979,中央公論社
モーガン,荒畑訳『古代社会』1954,角川文庫
エンゲルス,村井・村田訳『家族・私有財産・国家の起源』1954,国民文庫,新日本出版社
バッハオーフェン,冨野訳『母権論』1938,白楊社
フレーザー,永橋訳『金枝篇』5冊,1951〜52,岩波文庫
メーン,安西訳『古代法』1948,岩波文庫
ウェーバー,浜島訳『権力と支配』1954,みすず書房
テニス,杉之原訳『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』1957,岩波文庫
デュルケーム,井伊寿里訳『分業編』1957,理想社
トインビー,蝋山他訳『歴史の研究』1956,社会思想研究会出版部
チャイルド,ねず訳『文明の起源』1951,岩波新書
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