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●文治政治 ぶんちせいじ

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 江戸時代の政治形態の一つ。3代将軍家光までの幕藩制確立期を武断政治とし,17世紀中ごろから18世紀前半の享保改革までの幕政安定期を文治政治と把握した学説である。武断政治とは戦国的施政原理であって,江戸幕府が自己以外のもの,すなわち朝廷・外様大名・浪人・外国などを敵視し,それを自己のもつ武力と財力で抑えつける政治方針をいう。それに対し文治政治は,敵視ではなく親和,抑圧ではなく教化,武力ではなく礼楽,覇道に対して王道ということであり,平和の持続,文化・学問の発達によって政治の基本姿勢が変化していったとしている。武断から文治への転換の契機は,1651年(慶安4)3代将軍家光の死直後におこった由井正雪の乱(慶安の変)におくことが一般的である。この事件は翌年の戸次庄左衛門の事件(承応の変)とともに,浪人の蜂起計画が暴露したものであり,武断政治による大名取り潰し政策によって浪人が大量に発生したのが社会不安の原因とされている。そこで4代将軍家綱の時期には,大名家断絶の理由となっていた末期養子の禁をゆるめ,養父が50歳以下の場合にはこれを認めることにし,浪人の増加を防止した。さらに武断的な風習・制度であった殉死および諸大名の証人(人質)制を廃止した。5代将軍綱吉は,自らも儒学の講義を行うほどの学問好きであり,儒学の振興によって文治政治を推進した。湯島聖堂を開設し,林信篤(鳳岡)を大学頭に任じて,聖堂学問所を整備するなど,個人の嗜好をこえて文治政治の理念を儒学に求めたといえる。悪名の高い生類憐みの令も,殺生という武断的風習を極端に否定した政策と位置づけることが可能である。6代家宣,7代家継の両代において政治の実権を掌握したのは儒学者として名高い新井白石である。朱子学の理念を政治的に実現させようとした点においては,最も典型的な文治政治であったといえる。新井白石が政治の根本と考えたのは礼楽の振興であった。礼楽をおこすことは,徳川将軍家の尊厳を絶大にし,諸大名から庶民にいたるまでの身分階層を永久に固定化し,幕府の支配秩序を確固たるものにすることであった。このことは迂遠のようでも結局は風俗の奢侈化を抑え,財政的窮乏を解決し,身分制の混乱を防いで幕政を振興する道であるとした。実際の施策としては,江戸城内に中門を建て,将軍や諸大名の衣服を改めるなど,儀礼的な側面にとどまっている。朝鮮来聘使の待遇を簡素にしたのも経費節減のためよりも,過分の待遇が礼に背き将軍権威の低下を招くかをはかってのことであるが,いずれも枝葉的な面にとどまったといえる。藩政においてもこの時期には儒臣の登用や文教の奨励など文治政治の傾向が強まった。岡山藩池田光政による陽明学者熊沢蕃山の登用と藩学花畠教場・郷学閑谷学校の開設,会津藩保科正之山崎闇斎藩学稽古堂,水戸藩徳川光圀朱舜水彰考館による大日本史の編さん事業,金沢藩前田綱紀の木下順庵らがとくに知られている。しかし文治政治への移行を政治方針の基本的転換とすることは異論が多い。徳川家康は学問を好み林羅山を登用し,武家諸法度の第1条でも〈文武弓馬の道,専ら相嗜むべき事〉と文武の奨励を述べている。また文治政治といわれる5代綱吉の時代には,前後と比較して大名処分数が群を抜いて多いことも知られている。すなわち武断・文治といっても比較上の問題であって,江戸幕府が圧倒的な軍事力に支えられた武力政権であったことは疑いないのである。むしろ転換期とされる17世紀後半は,小農自立政策の完了する幕藩制の完成期であり,また畿内農村を中心として商品生産が展開しはじめるという新たな矛盾が成立する時期にあたる。領主層も,都市生活の発展による奢侈や財政窮乏などという現象への政治的な対応を迫られるようになる。このような社会体制の変質に対応する政治的手法の一つが,いわゆる文治政治であったということができるだろう。