50音順    検 索

●文人画 ぶんじんが

アジア 中華人民共和国 AD 

 この語は絵画の技法語や様式語ではなく,中国絵画のながい歴史のなかに生きつづけた教養高き文人(在野の知識階級)・士大夫(官吏)の描いた絵という高尚な情緒をこめた用語である。画態としては水墨山水画の流れのなかにあるもので,少ないが花鳥画や人物画もある。その題材には深い観照と洞察がこめられ,しかも画面には自作の漢詩文が自賛として書き加えられていなければならなかった。したがって,深い漢学的教養と歴史をわきまえ,身につけた文人士大夫でなければ描けない水墨画ということになる。そもそも中国の文化は文人たちの書斎から発展していったものであって,この書斎のことを文房といい文房のなかで教養を身につけた人を文人と呼んでいた。しかし文人の定義は固定したものではなく,歴史的には少しずつ変化している。古代の儒教の経典である『書経』や『詩経』では文徳の人といい,漢代から魏にかけては学問文章をよく理解した人をいい,六朝時代もほぼこの意味に解していた。ところが唐代では進士の試験に及第した人のことを文人と呼んだ例もある。しかし魏・晋のころから老荘を経典とする道家思想がおこったので,儒家よりも道家が重んぜられる傾向が出て,必ずしも儒教のみに限られることはなくなってきた。しかも六朝になると詩文がようやくおこり晋の阮籍陶淵明謝霊運などが現れ,自然のなかに美しさと情趣を求め,それらを対象とする純粋な文学への風潮がこまやかになってくる。そうすると文人の実質はもはや古代の文徳の人とは異なり,書芸の2王といわれた東晋の王羲之・王献之の父子らが現れ,いずれも絵画にも秀でたという。これらの文人たちには一種の清高・超俗の風格があり,後世の文人たちが彼らを文人の源流として敬慕するところとなった。唐代に入るといよいよ学識高い官僚で,最も有名な詩人であった王維を祖とし,彼の描く文人の絵が発生した。宋代になるとこのような意味の文人もふえ,蘇軾(東坡)とかベイフツ※注1※などは詩文はもちろん,墨竹を学び書画に対する高い鑑識眼をもち,画業においても新しい手法を導き出した。やがて宋以後は文人の輪郭も明確になり,明の中期以後清の乾隆帝にいたるころはほぼ文人の条件も整ってきたし,明の董其昌が初めて“文人画”なる用語を使い,唐の王維をその祖と決めその系譜を王維・董源巨然・ベイフツ※注1※父子および元末の四大家(黄公望・ゲイサン※注2※・呉鎮王蒙)とした。そして清の陳衡格は文人の必要条件として,「人品・学問・才情・思想」の四つを具備しなければ文人画として人を感動させ自らも感ずることはできないとした。ところで文人画は水墨山水画を第1とし,花木にもおよび宋元時代では墨竹・墨梅を尊重し,また枯木樹石などの淡泊な題材も認めた。要するに水墨のなかに幽玄な内面性を掘り下げ,隠逸脱俗の人格を条件としたのである。以上のような中国文人画の歴史と知識はやがて日本にも将来され,室町期水墨画のなかに現れてきた。それは禅僧の余技としての墨竹・墨梅図においてである。禅僧は元来文人ではなかったが,たまたま文人の風雅を学んだものが描いたものである。やがて江戸期になると文人的趣向をもった人物と作品が輩出してきた。その出現の経過は4期に分けられ,第1期は元禄・享保ごろ,祇園南海・彭城百川・柳沢淇園らが出た。第2期は宝暦・明和を中心とするころで,池大雅与謝蕪村・釧雲泉ら,第3期は最盛期で文化・文政を中心とするころ,すなわち木村蒹葭堂・岡田米山人浦上玉堂青木木米中山高陽田能村竹田桑山玉洲谷文晁頼山陽など。幕末の弘化から文久にかけての第4期は,政治的な動揺もあって衰退期となり,わずかに立原杏所などが出た。しかしこれらの日本文人画家たちの本質を中国のそれと比較するとき,その差は歴然たるものがある。それは彼らのほとんどが中国文人画の真意とながい歴史を学習せず,ただ長崎を通じて舶載されて来る文人画,および絵手本画論書南宗画技法のみを表面的に模倣するにとどまったに過ぎないからである。

00