●焚書坑儒 ふんしょこうじゅ
アジア 中華人民共和国 BC213 秦
中国、秦の始皇帝が行った思想統制策。『史記』始皇本紀が伝えるところによれば次のようである。前213年(始皇帝34)、始皇帝が咸陽宮で酒宴を催したとき、博士70人が国運の長久を祝ったが、そのなかで僕射の周青臣が郡県制を採用したことを称讃した。始皇帝は喜んだが、博士の淳于越は、皇帝の子弟を諸侯に封じて皇帝をたすけていく封建制度をとるべきで、周青臣の述べる郡県制賛美論は皇帝におもねったことばで、忠臣のことばではないと批判。これについて丞相李斯は、淳于越のことばは、古い時代の制度のことで、天下も定まり時代が変わった現在では、法律や命令も一元化されて徹底しており、古い制度ではそぐわないとし、学問にたずさわる多くの学者が、新しい法令の発表があると、自分の学んだ学問にてらしあわせて議論し、朝廷では発言せずに、市中で批判していると指摘した。ついでこのままに放置しておくと、君主の権威がおとろえ、社会に徒党ができあがることになり、これを禁止する方策をたてるべきであると説いた。そして、ことばをついで第1には、史官が所蔵している書籍のなかから、秦の記録でないものをすべて焼くこと、第2には、博士が職務上必要としているもののほか、世の中にある諸子百家の書すべてを集めて焼くこと、第3には、それでも詩書について論ずる者があれば死刑にすること、第4には、古い時代をよいとして現代を批判する者は一族皆殺しの刑にすること、第5には、官吏でありながら、この禁止命令に違反してみのがしている者がいた場合は同罪にすること、第6には、この禁止命令が発表されてから30日経過しても書物を焼きすてない者は、黥(いれずみ)をほどこして重労働の刑にすること、第7には、所持していてもよい書物は医薬・卜筮(ぼくぜい)・園芸などに関係があるものとすること、第8には、法令を学びたい者は官吏から学ぶこと、などを提案した。始皇帝は、李斯の提案をいれて、全国に命令して、書を焼きすてさせた。これを焚書という。前219年(始皇帝28)、泰山・琅邪山を巡幸し、刻石を立てて秦の徳をたたえたが、同じ年に、始皇帝は斉人の徐市(じょふつ)の上書をいれて、仙人を探させた。ついで、前215年(始皇帝32)には、燕人の盧生に命じて仙人を探させ、韓終・侯公・石生には仙人の不死の薬を求めさせた。さらに前212年(始皇帝35)には、盧生は始皇帝に不死の薬を入手する方法を教える一方で、侯生と相談した。秦の法律はきびしく、方士は二つの方術を兼ねることは禁止されており、方術を用いて効果がないときは死刑と定められている。だから300人という多数の人々が吉凶を予知するはずであるが、皇帝の怒りにふれることを恐れて、その誤りを指摘することもできないでいる。この状態では、仙楽などを探し求めることなどできないとして、慮生と侯生とは逃げてしまった。このことを聞いた始皇帝は怒り、多くの文学や方術の士を用いて、太平の世を建設しようと思ったが、韓衆(かんしゅう)は逃げ、徐市は巨万の富を使いながら不死の薬が入手できなかった。盧生たちには、尊敬の念をいだいて厚く贈り物をしてやっていたのに、政治を批判して私にそむいた。また咸陽に住んでいる学者たちにも、よくないことをいいふらして、人々をまどわしている者があると聞いている、として御史に命じて学者を調べさせた。学者たちは、たがいに罪をなすりつげて、自分だけ罪からのがれようとした。この調査の結果、禁令を犯した460余人を咸陽で穴埋めにし、このことを全国の人々に知らせて、警告させるとともに、罪を犯した人を探し出して辺境の地方に流罪にした。これを坑儒という。このとき殺されたのは儒者とは限らないが、漢代になって、儒家たちが秦の儒家圧迫の例証として、この事件をとりあげて坑儒につくりかえ、前の焚書と合わせて秦の政治を非難する事件としたものらしい。