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●分国法 ぶんこくほう

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 戦国大名が領国(分国)を統治するために定めた法典。家法(かほう)と呼ばれることもある。室町末期から戦国大名の領国が形成されていくが,大名は領国の支配を貫徹する目的で,機会あるごとに個別法令や禁制を発した。こうした個別法令を集成したり,総合的に編さんした法令集として分国法が形成されていった。また,家法というのは大名家の私的な法が分国の法としての性格をもつにいたるために呼ばれるのである。戦国大名は領国の統治にさいし,自己を「公」的な権力として客観的に位置づけていく必要があったが,その意味で法典の制定は重要であった。もちろんすべての戦国大名が個別法令を発布していく場合にも同様の意味があったといえる。こうした分国法を中心とした法令の基礎は,鎌倉期に制定された御成敗式目(ごせいばいしきもく)にあると考えて差しつかえないが,分国法はたんなる大名法令のみの集成ではなく,さきにのべたように,大名自らが「公」的性格を有するために,在地領主の法や一般の法たとえば在地の慣習法とか村落法などをとりこむかたちで形成されている点もみのがしてはならない。すなわち,分国法の制定主体はあくまで戦国大名であっても,その内容は中世社会を通じて形成・遵守されてきたいわば中世法の集大成としての意味をもっており,それゆえに分国法の容観性が保持されたと考えられる。すなわちこれらの点から分国法は戦国大名が一方的に家臣団(在地領主層)や農民・民衆に対して,大名権力の要求をおしつけるための法であったのではなく,戦国大名もまた守らなければならない法であったといえる。分国法として今日に伝えられるものを次に示す。朝倉氏の朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)・今川氏の今川仮名目録(いまがわかなもくろく)・大内氏の大内家壁書(おおうちけかべがき)・武田氏の甲州法度(こうしゅうはっと)・相良氏の相良氏法度(さがらしはっと)・伊達氏の塵芥集(じんかいしゅう)・三好氏の新加制式(しんかせいしき),北条氏の早雲寺殿二十一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)・長宗我部氏長宗我部元親百箇条(ちょうそかべもとちかひゃっかじょう)・結城氏の結城家新法度(ゆうきけしんはっと)・六角氏の六角氏式目(ろっかくししきもく)などである。これらの分国法の条数は少ないもので20条余,多いもので170条余である。分国法の内容として戦国大名はその家臣である在地領主層を通じて村落や農民を支配する性格から,所領相論や年貢の収納をめぐる規定が多く,また寄親−寄子(よりおや・よりこ)制などにみえる家臣団編成の規定,農民の逃亡および奴婢(ぬひ)・下人の問題,さらに寺社統制,喧嘩両成敗,商業の繁栄にともなって生じる債権債務関係の円滑化などに関する規定など多岐にわたっている。このなかでとくに喧嘩両成敗に注目すれば,これは家臣団および民衆相互における喧嘩や私戦の禁止ということであり,戦国大名はこうした家臣団や民衆を含めて広く領国内で生じる実力行使のたぐいを禁止し,いればその実力行使権ともいうべき権限を吸収していく。そしてそのことが実力行使の調停役としての戦国大名の「公儀」的性格をいっそう強化する意味をもっているといえる。また,分国法の規定内容について地域的にみるならば,畿内周辺先進地域の大名の場合は民事的規定が多く,関東・東北・九州などの大名の場合は刑事的規定が目立つといった特徴がある。なお,こうした分国法はたとえば,今川仮名目録追加の第20条目に〈只今はをしなべて,自分の力量をもって国の法度を申し付〉とみえるように,大名が朝廷や幕府を背景とせず「自分の力量」をもって分国法を制定するという,大名自身が法の源泉であるという立場を築いているということも重要な点である。こうした戦国大名が統一されて江戸期に入ると,幕府は全国に法令を発するが,近世大名の領域(藩)はそれぞれ大名にまかされており大名は法を独自に発したが,これは藩法(はんぽう)といわれている。