●文化変容 ぶんかへんよう
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異なった文化的伝統をもつ複数の社会が,相互に接触し影響しあった結果生じる変化について,アメリカの文化人類学者は一般に文化変容と呼び,イギリスの社会人類学者は文化接触という概念を用いる。最も幅広く受け容れられている文化変容の定義は,1935年にレッドフィールドらが与えた〈独立の二つ以上の文化が直接,連続的に接触することによって,その一方あるいは両方の文化様式に変化がおこる現象〉というものである。こうした現象への注目という発想は,基本的には,“素朴で未開な”民俗社会が“強大で優秀な”西欧文化と接触した結果,どのような変化が生じるかという疑問から生まれたものだ。したがって,アメリカ文化人類学ではアメリカ大陸の先住民族(インディアン)の社会を,イギリス社会人類学では南アフリカのバンツー系民族社会を対象にして,文化変容研究が発展していった。そこでは,西欧文化の“侵入”を前に,民俗文化のなかのどんな要素が西欧的文化を迅やかに受容し,どのような文化要素がその受け容れに対して抵抗するのかを明らかにすることが,主要な関心であった。西欧文化を唯一の進歩した支配的文化と仮定する初期の文化変容理論の発想・関心に対して,当然のことながら西欧の自文化中心主義との批判が投げかけられた。こうして,西欧文化(文明)対非西欧文化(未開)という枠組を形の上では取り払った文化変容概念が主張されるようになった。【文化接触の平面図】文化変容理論は,二つの異なる文化をもつ社会が接触し変化した結果を,理念的に以下の4類型に大別する。[1]一方の支配的文化が土着の文化を追い落とし消滅させる(消滅)。オーストラリアの先住民(アボリジニ)とヨーロッパからの移民文化との接触の結果がこれに属する。[2]一方の文化の「侵入」を他方が拒絶する(拒絶)。たとえば,かつての日本帝国主義による苛酷な植民地支配が今なお人々の心に癒し難い傷跡を残す韓国において,今日みられる日本語の歌などの日本文化に対する厳しい拒絶はその一例といえるだろう。[3]両文化がスムースに融合し,見かけは単一で構造的均衡を保った文化が出現する(融合)。明治以降,“和魂洋才”のスローガンをかかげて,西欧の技術・制度・価値を積極的に受容することによって“日本的近代化”を成し遂げたわが国の文化は,このタイプに分類できるかもしれない。[4]一方の文化が他方の文化に吸収され,そのなかの下位文化・下位カースト・下位階層として存在する,あるいは,相互に並列的な下位文化要素として複合社会のなかにモザイク状に共存する(吸収・混合)。その典型的な例を,アフリカ大陸中央部(現在のルワンダ,ブルンディ)で生起したツチ-フツ関係にみることができる。ここでは,植民地化以前に,バンツー系農耕民族(フツ)文化とナイロート系牧畜民族(ツチ)文化が接触し,フツがツチの下位カーストとして従属的地位を与えられたのだ。この関係は,1962年にツチ・フツがそれぞれブルンディ・ルワンダという別々の国家として独立するまで解消されることはなかったのである。二つの文化が接触した結果生起した変化の状態(2文化間の相互関係)を,一定の時点で切りとった平面図が,以上の4類型であった。ただこの類型化は,二つの文化のあいだの“全体的”関係を“静態的”にとらえてしまう点に弱点がある。この弱点をカヴァーするために,より微細に,かつ部分的に二つの文化要素間の作用・反作用を“動態的”観点からとらえ返す試みが重要になるのである。
【文化要素間の作用・反作用】互いに異なる文化のなかで生成された技術・制度・観念といった文化要素が相互にぶつかりあうとき生じる作用・反作用には,五つのタイプが考えられる。土着的 A 文化に外来の B 文化が接触し,A 文化のある文化要素 a と B 文化のある文化要素 b が互いに作用反作用しあう状態を仮定して,五つのタイプ各々について説明を加えていこう。[1]b が A 文化のなかで同じ機能を果たしている a にとって替わる(代替)。たとえば,アフリカのバンツー系農耕民文化に犂が導入されると,鍬はそれにとってかわられたのである。[2]A 文化のなかで a が果たしてきた機能を,b の「侵入」によって a と b がそれぞれ独自の役割を分担しながらカヴァーする(棲み分け)。アフリカ社会における西洋医学と伝統的呪医の関係がまさにこれにあたる。一回生起的な症状(たとえば骨折・裂傷・頭痛)などは町の診療所へいって対症治療を施してもらうが,そうした症状が連続的に生起したり,不妊など社会の連続性を脅かす異常事態がおこるとなると話は別になる。そのときは,呪医に異常性の因果系列を解読してもらい,その系列自体に対して,他方からの呪いの除去などの根源的治療を受けることになる。[3]伝統的に形成されてきた a に b が作用したため,もともと a がもっていたオリジナルな意味が変化し,その上に新たな意味が付与され,A 社会で機能しつづける(付加)。その興味深い事例を,マレーシアの伝統的な人間の尊厳・社会的価値を象徴するマルアー概念の意味変化にみることができる。伝統社会において,マルアーは,自分自身や家族・親族そして地域の支配秩序を維持するキー=イデオロギーであった。これを落としめるいかなる試みも,社会的反秩序として規制された。ところが,イギリスの植民地支配とともに始まったプランテーション経営は,そこで働くマレー人労働者を単なる賃金労働者=商品として物のように取り扱った。彼らのマルアーは侵害され貶められたのだ。マルアーは,それからマレー人農業労働者の抵抗のイデオロギーとして新たな意味を付与され,労働者の階級意識形成に大きく寄与したのである。[4]外部から強力な b が“侵入”してきたとき,もとからあった a と“棲み分け”も“代替”もされずに,両者が融合して新たな文化要素として再生する(折衷)。その最も一般的な例は,キリスト教・イスラム教・仏教といった世界宗教とローカル社会の伝統宗教とのあいだのシンクレティズム現象である。イギリスの植民地支配のもとで,20世紀初頭から英国教会・カトリック・クウェーカーなどが活発な布教活動を展開したケニアでは,この現象が顕著にみられる。そこでは,キリスト教と伝統的な精霊憑依にドラムとダンスが混合した精霊派などの独立教会各派が林立して,村人の支持を獲得しているのである。[5]強力で抑圧的な B
文化の優勢な技術・制度 b1 b2 b3 ……を排除するために,A 文化内に排除を組織する文化要素 a が生成される(排除)。メラネシアで発生した千年王国運動の一種,カーゴ=カルトもその一例だ。島民は,白人のもつ優れた物資(積み荷 cargo)を先祖たちが船に満載して島にもち帰ってくれる日が来ることを信じた。そして白人侵入後の世界の秩序を逆転させ,もとの平和で豊かな秩序を復活させるための大衆的大宗教運動をつくりだした。それがカーゴ=カルトであった。同様の現象は,世界各地で見出すことができる。
【文化変容研究の可能性】以上述べてきた五つのタイプの作用・反作用は,各々が結合して,あるいは連続的に発生することがふつうだ。同時に,一つの文化要素をめぐって生起したある作用・反作用は,他の文化要素にほとんど例外なく波及し影響を及ぼすことになる。つまり,本来部分的で微細な文化要素間の作用・反作用は,連続的に波及・拡大して両文化総体がおりなす社会変動の一局面までも規定する力を有するようになる。こうした視点を確認するなら,文化変容概念は,社会変化の一般理論の重要な一翼を担っていることがわかる。さらに進んで,その社会変化の方向性と固有性を導き出す作業の延長上には,巨視的で多線的な社会進化の領域や,変化の方向性が閉ざされ,ネジクギ状に展望なく渦巻いている内旋の領域を展望することもできるのである。
〔参考文献〕大林太良編『文化摩擦の一般理論』1982,巌南堂書店
「社会変化」吉田禎吾・蒲生正男編『社会人類学第7章』1974,有斐閣