●文化大革命 ぶんかだいかくめい
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1966年から1969年にいたる約3年間、中国社会を未曽有の激動と混乱にまきこんだ政治運動で、それにつづく“四人組”の支配時期をふくめて、中国では“動乱の10年”と呼んでいる。この運動は毛沢東とその側近(四人組)が直接指導したものであり、正式には「プロレタリア文化大革命」(略して文革)という。その経過と性格は以下のとおりである。
【文化大革命の発端】1965年11月10日、上海の新聞「ブンワイホウ※注1※」は上海作家協会に所属する姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」と題した長大な論文を発表し、『海瑞罷官』なる作品が“一株の毒草”であり、これを著した作者は危険思想の持ち主であると批判した。『海瑞罷官』の著者は有名な歴史学者で、北京市副市長の要職にあったゴガン呉※注2※であるが、姚文元の批判が唐突かつこじつけに満ちていたことから、ゴガン※注2※自身はもちろん、当時の中国の歴史学界では問題にもされなかった。しかし、日を追うにつれ、ゴガン※注2※への批判は激化し、1966年に入るやゴガン※注2※を含めて北京市のいわゆる“二家村グループ”は反党・反革命分子であったとされ、ゴガン※注2※は失脚、拘禁された。“二家村グループ”とはゴガン※注2※・廖拓(とうたく)・廖沫沙(りょうまっさ)ら3人の文人政治家をいい、彼らは呉南星という共同ペンネームをもちいて現体制批判の筆をとっていたのである。しかも、ゴガン※注2※につづいて田漢(劇作家)・翦伯賛(せんぱくさん、北京大学副学長)・周揚(文芸理論家)・老舎(作家)・巴金(作家)など著名な文化人が次々と激しい批判にさらされた。ここにいたって、姚文元の意図が単なる文化・芸術のあり方を問題にしているのではなく、その標的は上記文化人らの政治的擁護者である劉少奇(当時、国家主席)の政策と路線にあること、それが毛沢東に反対する修正主義であり、批判されねばならぬことを示唆したものであることが明らかになった。姚文元論文が毛沢東の直接の命を受けて書かれたことは、それを物語る。文化界の大御所郭沫若(かくまつじゃく)が劇的な自己批判を行ったのはこの前後であり、郭は党内闘争の火の粉が自己にふりかかるのを未然に防いだのであろう。本質的には中国共産党内の路線の対立、すなわち毛沢東と劉少奇の党内抗争が“文化大革命”の名で呼ばれるのは、これが以上のような文化人批判に始まったことによる。ちなみに、上記『海瑞罷官』の海瑞とは16世紀明代の官僚で、不正不義を憎み、人民に善政をしいたため、皇帝にうとまれ、失脚した人物であるが、姚文元の批判点は、ゴガン※注2※がこの人物に仮託して1959年に毛沢東に反対し失脚させられた彭徳懐(ほうとくかい、当時、国防部長)の名誉回復をねらったのであった。
【毛沢東思想絶対化状況の現出】ゴガン※注2※批判に見られる毛沢東の強引な反修正主義=劉少奇打倒の意図は、1966年8月8日に開催された中国共産党第8期中央委員会第11回総会において、明確に示された。すなわち、この総会では「プロレタリア文化大革命についての中国共産党中央委員会の決定」が採択されたが、ここには党内には〈資本主義の道を歩む実権派〉が存在すること、今回の文化大革命の当面の目的は、〈敢然〉かつ〈思いきり大衆を立ちあがらせて〉、これらの実権派を打倒すべきであること、が高らかにうたわれていたからである。“実権派”とはのちに“走資派”ともいわれるが、要するにブルジョワ思想をもった党内の実務家集団をいい、具体的には劉少奇をはじめトウショウヘイ※注3※・彭真(ぼうしん)ら当時の党指導部をさしている。しかし、この段階ではまだ彼らは名ざしで批判されなかった。彼らの命運がきわまったのは、上記総会の10日後の8月18日に北京で開かれた「プロレタリア文化大革命を祝う100万人大集会」においてであった。この集会は従来、国慶節以外に大衆の面前に現れたことのない毛沢東の直接参加のもと、全国各地からはせ参じた革命的大衆を結集して行われたものであるが、ここで明らかになったのは中国共産党内のリーダーシップが大きく変わったこと、具体的には林彪(りんぴょう、当時、国防部長)の地位の向上と劉少奇の地位の異常な低下であった。北京放送と新華社電が、当日の参加者を毛沢東・林彪・周恩来・陶鑄(とうじゅ)・陳伯達(ちんはくたつ)・トウショウヘイ※注3※・康生(こうせい)・劉少奇の順で報じたこと、中国各紙が毛沢東と並んだ林彪の写真を大きく掲載したことはそのことを裏づけるものであろう。しかも、この集会における林彪の演説は、毛沢東礼賛の一語につきるものであった。彼はまず“実権派”の打倒を叫んだあと、〈毛主席は現代におけるプロレタリアートの最も優れた指導者であり、現代における最も偉大な天才である……毛沢東思想はマルクス=レーニン主義のまったく新しい発展段階であり、現代最高のマルクス=レーニン主義である〉といったのである。しかも、紅衛兵(こうえいへい)が初めて出現したのはこの大会においてであり、以後、“紅衛兵旋風”の名による彼らの過激な行動は、中国社会を恐怖と混乱の渦のなかにまきこんだのであった。
【紅衛兵の跳梁と文革の悲惨】紅衛兵は初め首都北京だけであったが、8月20日以降は全国の主要都市に出現した。彼らは革命的な大学生・高校生を主体としていたが、のちには中学生および一部青年労働者が糾合して、“毛主席万歳”と『毛主席語録』(毛沢東の著作・言動のなかから文化大革命の遂行に必要な部分を摘記・集録したもの)を自己の絶対的信条のシンボルとして街頭に進出、〈毛主席の意志である〉として“実権派”打倒の激烈な行動を開始した。彼らは〈われわれは旧世界の批判者であり、新世界の創造者である〉と呼号しつつ、“実権派”たちを襲い、トウショウヘイ※注3※・彭真・羅瑞卿(らずいきょう)・陸定一(りくていいち)ら党と国家の指導者たちをひき回した。劉少奇は大衆批判大会に引き出されたあと、幽閉された。“実権派”とみなされたすべての人が迫害され、失脚した。そればかりか、紅衛兵は街路・商店・史跡の名称変更を要求し、道行く人の服装・容姿・言動にまで“ブルジョワ思想”を見出してこれを摘発・批判し、ついに[1]民主諸党派の解散、[2]人民公社の1958年創立時への復帰、[3]民族資本家への定期利子支払いの停止、[4]教育制度の徹底的改革など、既存の政治・社会制度の根本的改革を求める挙に出たのであった。“造反有理”(反逆には道理がある)なることばが世界中で流行語になったのも、この時期である。各地で流血の惨事が頻発し、中国の教育は学校教育の全体系にわたって全面的にストップしたばかりか、共産主義青年団・少年先鋒隊をはじめ、既存の青少年組織はすべて解散させられた。こうした状況は1968年いっぱいつづくのであるが、この期間、“文化”の発展は何一つなく、あるのはただ“毛沢東文化”のみであった。1966年から1969年までの期間、『毛沢東選集』は430万部、『毛主席語録』は10億部出版されたという。なお、ゴガン※注2※は1969年10月に北京で、劉少奇は同じく11月に河南省開封で、いずれも迫害のなかで死亡した。
【四人組の専制】1969年4月、中国共産党は第9回党大会を開催した。前回1958年の第8回大会(第2回会議)から数えて実に11年ぶりであった。この大会は“団結の大会”“勝利の大会”とうたわれているように、毛沢東派による反対派一掃の勝利を祝う大会であり、“実権派”打倒に功績のあった林彪がただ一人の党副主席に選ばれ、〈毛主席の後継者である〉ことが党規約に規定されたほか、党中央政治局員に江青(毛沢東夫人)・張春橋および姚文元らが新たに加えられた。党中央政治局とは党運営の中枢部に当たるのであるが、かつての実務家では周恩来が残っただけであった。異常な人事といわなければならないのであるが、ただこれによって文革の混乱が収束されるであろうことを国民は期待した。事実、紅衛兵組織はこの時点ですべて解消させられてもいた。しかし、1970年代に入っても林彪および江青らは依然として極左主義路線を掲げ、周恩来を主とする穏健実務派の追い落としを画策したばかりか、内外全般にわたって“思想第1”の緊張政策を強いたのであった。政治的混乱は長びき、経済は停滞した。とくに江青はのちに党中央入りする王洪文を含めて張・姚らと“四人組”を形成し、毛主席夫人という権威をかさに専横のかぎりを尽くした。文化・教育面に限っていえば、この時期、“教育と労働の結合”が極端なまでに強調され、学制が短縮されているが、これは“四人組”の施策によるものであった。彼らは知識人を“9番目の鼻つまみ者”といい、文革前までの教授・教員・知識人の80%以上を職場から追放した。大学の進学には中学・高校卒業後2〜3年の労働体験が必要とされ、学力テストに代わって毛沢東著作の習熟度いかんによって人間の価値が決められた。文革期の教育が“知識”不在・“文化”不在といわれるのはこのためで、ABC はおろか、一次方程式も解けない大学生、魯迅も杜甫も知らない青少年が、多数存在したと想像される。なお、林彪は功をあせって毛沢東・“四人組”と対立し、モンゴル上空で非業の死をとげた。
【毛沢東の死と文革の終息】1976年1月8日、周恩来首相が死亡、ついで7月6日、軍の最長老朱徳が死亡した。そして、これらを追うように9月9日、毛沢東もまた他界した。毛沢東の権威を背景に権力の掌握をねらっていた“四人組”の受けた衝撃は大きく、彼らは毛の遺書なるもの(〈既定方針通りやれ〉)を盾に体制の建て直しをはかった。しかし、周恩来のあとを継ぎ、首相代理の任にあった党第1副主席華国鋒の反対にあい、10月6日、彼らは逮捕された。“四人組”の計画では、毛亡きあとの権力構造は江青を党主席、張春橋を首相にし、姚・王にそれぞれ重要ポストを与え、党・政の全般にわたって“四人組”支配を貫徹させることにあったという。そうなれば中国はどうなっていたか。華国鋒は危機寸前で中国を救った。劉少奇支持派の国民はこぞってこの快挙を喜んだ。そして、1977年8月に開かれた党の第11回大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結が正式に宣言され、“四人組”が断罪された。当然のことながら、“実権派”といわれ、迫害と追放の身に置かれていたかつての指導者たちの名誉が回復され、復活した。トウショウヘイ※注3※がそうであり、胡耀邦(こようほう)・彭真が復帰した。中国は開放体制をとることを内外に約し、“現代化”政策のもと法制を整えた。文革=“四人組”時代の“暗い”イメージは、徐々に払拭されつつある。現指導部(トウショウヘイ※注3※・胡耀邦体制)による文革の評価は、1981年6月27日のいわゆる“歴史決議”(「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」)に集約されている。
〔参考文献〕東方書店出版部編『中国プロレタリア文化革命資料集成第1〜5巻・別巻』1970〜71、東方書店
小林文男『中国現代史の課題』1979、勁草書房
霞山会東亜文化研究所編『中国文化大革命の再検討』上・下、1979、霞山会
