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●文化人類学 ぶんかじんるいがく

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【文化人類学とは何か】文化人類学は,世界の諸民族のあいだにみられる文化上の類似点と相違点とを比較し,人間の全体像に一つの見通しを与えようとする学問である。世界のすべての文化がその研究対象となるし,また一つの文化のあらゆる分野が文化人類学者の関心の対象となる。したがって,文化人類学の対象はきわめて広範であり,複雑多岐にわたっている。空間的には地球上の全人類にわたり,時間的には人類の誕生から現代文明にまで及ぶことになる。このような文化人類学を,一つの強力な統一性をもつ科学として存在せしめている背景には,少なくとも四つの基本的な思想がある。

 その第1は全体観という概念である。全体観というのは,一つの文化というのはばらばらなものではなく,大なり小なり統合されているということである。つまりある文化における行動・制度・考え方などは,機能的にたがいに結び付けられているという仮定である。したがって,文化要素をそれが位置している全体社会の脈絡から切り離さないで把握することを重視する。19世紀から20世紀初頭にかけての進化主義的・伝播主義的人類学では,個々の文化要素を抽出して分離的に扱う傾向が強かったが,機能主義的研究が進むにつれて,しだいに,文化は単に個々の文化要素が,ばらばらに集合したものではなく,首尾一貫した型をもつ複合体であると考えられるようになった。たとえば,文化人類学では,ある社会で宗数的儀礼や育児慣行などを研究する場合に,それが位置している全体社会との脈絡のなかで,関連的にとらえようとする立場をとる。ことばを変えれば,一つの文化というのは,それぞれ他の文化とは,異なる独自の型をもっているということを,認識することなのである。

 文化人類学にとって第2に重要な要素は,この学問が一貫して比較という視点をもっているということである。文化人類学思想の歴史をさかのぼると,世の中には自分が生まれ育った文化とは異なる文化が存在することに気が付き,そうした異なった文化に対する好奇心・関心が出発点になっていることがわかる。古代のインド人やエジプト人あるいはギリシア人は,彼らのまわりに住む異民族や異人種が,自分たちと違った皮膚や眼の色,異なる風俗習慣をもち,理解できぬことばを話し,異なる神々を信仰していることに非常な興味を抱いていた。3世紀中ごろの中国の書『魏志倭人伝』やマルコ=ポーロの『東方見聞録』なども,異民族の言語や風俗に関して記した文化人類学的文献をみなすことができる。もちろん,古典となっているこの種の資料には,客観的な比較を行っているものは少なく,自民族中心の主観的な記述が大部分を占めている。しかし,自分の生れ育った文化から眼を転じて,近隣の異なった民族のことばや風俗を観察した点に,現在の文化人類学の萌芽を読み取ることができるのである。

 しかし,文化はそれぞれ独自の統合された型をもつという全体観と,文化間の比較を重視する立場とは,どのように両立することができるのか,という疑問が生じうる。文化はすべて独自の型をもつという点をあまりに強く主張すると,異なった文化を比較することは困難に思えるからである。しかし,全体観というのは人類のすべての文化が,相互にまったく異質なものだということを意味しているのではない。われわれがさまざまな文化を比較できるのは,現在地球上に住んでいる人類が,ホモ=サピエンスという単一の種に属しているということについて,ほぼ共通の理解に達しているからである。現生人類が生物として,共通の種に属しているということ,人間性は共通なのだという認識があってこそ,人間の文化を比較することが可能なのである。したがって,文化人類学を統一している第3の要素は,人間そのものに研究の焦点があてられているということである。文化人類学が,“人間の科学”であるとも,“文化の科学”ともいわれるのはこのためである。

 ところで,文化人類学が到達したもう一つの貴重な成果は,徹底した相対的人間観かもしれない。文化人類学は,文化がきわめて多様で変化に富んだ存在であることを認める。しかし,そうした多様さのあいだに,どちらが高くどちらが低いというような,価値判断を介入させないのである。すべてを相対的なものとみなし,異文化相互のあいだの差は認めるけれども,そのうちのいずれかに絶対的な価値の存在を認めるということをしない。したがって文化人類学は,価値の客観的研究をする科学であるともいえる。文化の相対的認識は,文化人類学を成立させている第4の重要な思想である。

【実地調査】このように文化人類学には,全体を統合している四つの基本的思想があるが,文化人類学的調査研究をすすめていく上での最大の方法論的特色は,フィールド=ワーク(実地調査ないし野外調査)を重視するということである。とくに機能主義的人類学が出現して以来,書斎で思索に耽り,実地調査を行わない思弁的な文化人類学者(民族学者)を“安楽椅子の哲学者”と呼び,文献や博物館の資料にのみ頼る学者を“博物館のもぐらもち”とまで批判している。実地調査とは研究者が長期間調査地に定着し,自分で観察し,面接を行って資料を集める方法をさしている。

【文化人類学の名称と区分】文化人類学という学問の名称は,第二次世界大戦後アメリカから輸入されたものであり,戦前は専ら民族学ということばが用いられていた。現在でも,日本における文化人類学研究者による学会の名称は「日本民族学会」である。このように文化人類学と民族学が平行して用いられているのは,第二次世界大戦前の日本では,ヨーロッパの,とくにドイツ・オーストリア流の用語法の影響が強かったからである。ドイツ・オーストリア圏では,人間の身体に関する研究を行う学問を人類学と呼び,諸民族の社会・文化面の研究を行う学問を民族学と呼んでおり,戦前の日本の文化人類学は,ドイツ・オーストリアに留学した学者の影響が強かった。第二次世界大戦後,アメリカの総合人類学的考え方が導入され,人間について総合的研究を行う学問を人類学と呼び,このなかを次の3分野に分ける方法が一般的になった。

 しかし,日本においてはまだ,これら人類学の3分野を,組織としてもまたカリキュラムの上でも完全に備えた大学はみられない。形質人類学は理学部や医学部で,文化人類学は人文学部・教養学部・文学部などで教えられているのがふつうである。なお,英国においては文化人類学の代わりに社会人類学という名称が使われており,比較社会学的な性格が強い。

 また,日本の文化人類学(民族学)の名称について考える場合に忘れてならないのは民俗学の存在である。日本の民俗学は柳田国男によって始められた学問で,日本村落社会の庶民(常民)のあいだに伝えられた風俗習慣・生活技術・口頭伝承などを研究する。ところが,民族学と民俗学は,日本語ではまったく同じ「ミンゾクガク」となってしまうのでまぎらわしい面があり,こうした点からも文化人類学という名称の方がわかりやすい面がある。

【文化人類学の学説史】文化人類学研究が,自分の文化と異なる文化との比較対照から始まったものであることを先にのべたが,人類におけるこのような関心は,18〜19世紀におけるヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカなどへの進出によってもたらされた。彼らとは異なる人間と文化に関する大量の情報によって飛躍的に促進された。多くのヨーロッパやアメリカの科学者や思想家たちは,こうした非ヨーロッパ世界における風俗慣習を,ヨーロッパ世界の過去の姿と考え,人類文化の発達をヨーロッパ文明を頂点とする進歩と発達の一直線上に並べて考えようとした。

 文化人類学説史上の進化論の出現には,このような背景があった。文化の進化論を唱えた文化人類学者には,スペンサー(1820〜1903)・バッハオーフェン(1815〜87)・メイン(1828〜88)・タイラー(1832〜1917)・モーガン(1818〜81)などがいるが,これらの学者の進化論は,相互に多少のニュアンスの違いこそあれ,ほぼ次のような共通の考え方があった。つまり,文化上の“一切の発展は,同一の段階をたどって一系的に行われ,低次から高次へ,不完全から完全へと進化発展するが,進化の速度には遅速がある”ということである。あらゆる民族において,文化の進化が同一の段階をへて一系的に行われるということは,人間の心理が根本的には斉一であるという前提があった。また,低次より高次へ進むという場合の進化の価値づけは,西欧近代の文明をその頂点とみなしていた。また,文化には未開,文明の違いがみられるのは,進化の速度が民族によって異なるためであると解釈されていた。しかし,このような西欧中心の主観的進化論に対しては,物質文化と社会組織や宗教・芸術などの分野とでは,進化の基準を一概に定めることが困難であること,文化の発展が,あらゆる民族についてつねに一系的に行われるとは限らないことなどの批判が続出した。これに反して,民族から民族への文化の伝播や民族の移動によってもたらされる文化分布のもつ意味が,しだいに認められるようになってきた。

 19世紀末ごろから伝播主義が台頭してくるようになる。文化人類学説史の上で伝播主義と呼ばれているものの中には,イギリスのマンチェスター学派,ドイツ・オーストリアのケルン・ウィーン学派およびボアズ(1858〜1942)を中心とするアメリカ学派などがあるが,これらの諸学派に認められる特色は,諸民族の歴史的接触による文化の借用・伝播という事実を重視し,現存の諸文化の地理的分布状態に着目して,そこにみられる類似文化と異文化の分布を指標に文化史を再構成しようとしている点にある。文化伝播論者としてはスミス(1871〜1937)・バスチアン(1826〜1905)・グレーブナー(1877〜1934)・ラッツェル(1844〜1904)・フロベニウス(1873〜1938)・リバーズ(1864〜1922)・シュミット(1868〜1954)などがよく知られている。進化論では文化現象の生成に主として関心を寄せていたのに対して,文化伝播論は文化現象の分布に注意をむけたということができる。しかし,進化主義の画一的な歴史の再構成を批判することから出発しながら,文化伝播論の多くは,たとえば文化圏説にみられるように図式性に陥り,要素主義的な傾向を強めていった。

 しかし,1920年代に入るとイギリスの二人の文化人類学者によって,新しい理論が開拓されるようになった。1922年にラドクリフ=ブラウン(1881〜1955)の『アンダマン島民』,マリノウスキー(1884〜1942)の『西太平洋の遠洋航海者』が出版され,機能主義理論にもとづく近代的人類学が成立するからである。機能主義は,現在的視角から,文化について集約的実地調査を行い,部分を全体との関連においてとらえ,その果たす機能において理解すべきことを主張している点で,古い要素主義との根本的な違いがある。最もラドクリフ=ブラウンとマリノウスキーとでは,同じ機能主義といっても違いがある。前者では文化よりも社会に関心がむけられ,人々がつくる社会関係の網の目を社会構造と呼び,その機能的統一を研究対象としたが,後者の場合は,文化を人間の生物学的欲求と関連づけ,このような文化の窮極的機能を分析しようとした。ラドクリフ=ブラウンの機能主義を構造的機能主義と呼び,マリノウスキーのそれを心理学的ないしは生物学的機能主義と呼ぶのはそのためである。その後,とくに構造的機能主義エヴァンズ=プリチャードレイモンド=ファース・メイヤー=フォーテスなどによって多くの優れた研究成果を生んだ。

 機能主義は,文化がこれを構成する諸部分が有機的に結び合ってつくる一つの統合体であることを立証した功績は大きいが,こうした文化の主観的側面に着目したのが,ルース=ベネディクト(1887〜1948)の文化様式論であった。ベネディクトはアメリカ=インディアンの諸部族やメラネシアのドブ島民の精神的性向を比較し,アポロ的・ディオニソス的・パラノイア的などのことばを用いて,それぞれの文化の型ないしは様式を説明した。ベネディクトの理論は,文化を前もって用意されたいくつかの型に整理する類型論ではなく,文化を特徴づけている統一的表現形態の性格を論ずることであった。ベネディクトの文化様式論はまた文化と個人の関係を問題としていたが,この方向をさらに発展させたのが,ミード(1901〜78)やサピア(1884〜1939)・リントン(1883〜1953)である。“文化とパーソナリティ”と呼ばれた分野がこれであるが,この分野の人類学者たちは,精神分析学の理論や心理学・統計学の手法を導入して,人間の発達・成熟のプロセスと社会・文化的要因との関係を究明した。1960年代に入ると“文化とパーソナリティ”と呼ばれていた領域は心理人類学と呼ばれるようになり,認識人類学の領域とも重なるようになってきている。

 1940年代に入ると,一時はその非科学性が批判され,人気のなかった進化主義が,アメリカのホワイト(1900〜1975)の出現によって,新進化主義として注目されるようになった。ホワイトは文化を技術体系・社会体系・観念体系の3部門からなるものとし,このなかで技術体系のエネルギー使用量を重視した。ホワイトは文化進化の段階をはかる指標は,年間一人当りの捕捉エネルギーの量であるとし,それを効率的に使いこなす技術を重視した。つまり,文化進化の指標は,エネルギー使用量と技術をかけ合わせた積によってはかることが可能であるという。こうしてホワイトは文化進化の主要な4段階を区別するのであるが,一方,ホワイトと同世代のスチュワード(1902〜72)は,ホワイトの進化論はあまりにも一般論的であるとして,各文化の生態学的環境を重視する“多系進化論”を唱えた。新進化論はサーヴィス(1915〜)やサーリンズ(1930〜)という優れた後継者を生んで,より精緻な理論として文化人類学説のなかに定着してきている。

 他方,1940年代に入るとフランスのレヴィ=ストロース(1908〜)を創始者とする構造主義が台頭してくる。レヴィ=ストロースの構造主義より前に,オランダのデ=ヨセリン=デ=ヨング(1886〜1964)を中心とするレイデン学派の人々によって,同種の構造概念がすでに生まれていたが,文化人類学の学説として定着するのは,レヴィ=ストロースらの活躍によってである。構造主義人類学でいう“構造”は,ラドクリフ=ブラウンのいう“構造”のように,経験的実在としての固定的なものではなく,表面には現れない不可視の隠れた原理をさし,分析のために論理的に構築された,意識されない体系である。このようなレヴィ=ストロースの構造論は,フランスのモース(1872〜1950)による交換の概念と互酬性の理論および言語学者ヤコブソン(1896〜1982)の構造言語学から深く影響されたものであった。レヴィ=ストロースの代表作には『親族の基本構造』(1948)・『今日のトーテミズム』(1965)・『野生の思考』(1961)などがある。同じく構造主義者といわれていても,イギリスのニーダム(1923〜)のそれはより実証的であるといえよう。

 このような構造主義は,隠れた原理としての構造と目に見える経験的現実をつなぐ問題に着目した象徴論への展開をみせ,他方で人間の文化活動を言語学的モデルによる記号的テクストとして理解しようとする文化記号論の台頭を促した。文化人類学における記号論的研究は,その方法が言語モデルに依拠する点で,レヴィ=ストロースの構造主義からの影響を強く受けているのである。また,文化によって分類の体系が異なることに着目した民俗分類に関する研究は,認識心理学などからの理論もとりいれて認識人類学という新しい分野を確立しつつある。現象学的な観点を人類学研究に導入しようとする試みとともに,注目すべき動きであるといえよう。

【文化人類学の基本的用語】文化の概念と定義:文化人類学は“文化の科学”であるともいわれており,文化はこの学問の中心概念であるといえる。日本語で日ごろ使われている文化ということばには“文化人”“文化国家”“文化センター”などのように,高級なものや知性・教養などと結び付いたものが多い。しかし,文化人類学その他の学術用語として用いられる文化とは,人間が過去から現在まで世代を超えて創造し伝えてきた,精神的・物質的所産の複合的全体のことである。つまり,ある民族の文化とは,その民族の生活の全体をさしており,知性とか教養などのように狭い意味に用いられているのではない。しかし,文化を上述のように広くとらえることでは一致していても,文化人類学者のあいだでは,文化概念の定義について,さまざまな意見があることも事実である。イギリスの人類学者のタイラーが『原始文化』(1871)の中で〈文化もしくは文明とは,その広い民族誌的意味においては,知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣習その他およそ人間が社会の成員として獲得した能力や習性の複合的全体である〉と述べているのは古典的定義としてよく引用される。また,クラックホーン(1905〜60)らによる〈文化とは,集団の全員または特定のメンバーにより共有される,生活のための,外面的および内面的様式の体系である〉(1945)という定義も優れている。しかし,近年,文化を人間の行動からの抽象であるとする考え方や,ギァーツ(1923〜)のように,人間を〈自らが紡ぎ出した意味の網の目に支えられた動物〉であり〈文化とはそのような網の目〉であるとする学者もいる。いずれにしても,“人間”を理解する上で文化の理解が不可欠であることを示していよう。

【未開と文明】文化人類学の学としての出発点は,19世紀初頭に,ヨーロッパの人々が,彼らとは異なる皮膚の色をし,異なることば・宗教・習俗をもつアフリカ・オーストラリア・インドなどの人々について,科学的な関心をもつようになったことである。欧米の白人たちは,自らの文化を世界で最も発達した文明と考え,それ以外の低い技術段階にある人々の文化を“未開”と考えた。“未開”というのは英語の primitive の訳であるが,実は未開とは何かということを改めて考えてみると大変むずかしい問題であることがわかる。未開と文明の差異は,技術上の発展の違いを除くと,多くの場合相対的なものであり,価値観の違いにもとづくものが多い。近年では文字の有無にもとづいて,比較的単純な文化を“未開”の代わりに“無文字文化”とか“単純文化”のように呼ぶことも多い。

【人種と民族】人種と民族ということばは,かなり高度の学術書のなかでも誤用されていることが多いが,文化人類学上重要な概念である。人種というのは生物学的な概念で,言語・風俗・国籍のいかんを問わず,身体の形質上の相異にもとづいて分類された人の群をさす。民族という語は文化的な概念で,言語や風俗習慣などの生活様式が共通・同質的で,共同の祖先からの出自を信じ,元来は同じ居住地域に住んで,同一集団に属するという帰属意識をもつ人々をさす。文化人類学は主として民族の文化を研究する学問だと考えてもよい。