●文華秀麗集 ぶんかしゅうれいしゅう
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勅撰漢詩集。全3巻。平安時代初期(818年ごろ)成立。【時代概況】平安時代初期の唐風文化隆盛時になった。三大勅撰漢詩集の2番目のもの。最初の勅撰漢詩集は『凌雲新集』で,814年(弘仁5)ごろで,2番目がこの『文華秀麗集』である。3番目は『経国集』で,827年(天長4)の成立である。この時代は,“一に唐風による”といわれ,唐風文化の最も華やかなときで,『凌雲新集』ができて4年をへないのに,『文華秀麗集』の序に〈厥(そ)れ自(よ)り以来(このかた),文章間出し,未だ四祀(しし)を逾(こ)えぬに,巻(まき)は百余に盈(み)てり〉といわれる盛況さをうけて編まれたのが,この『文華秀麗集』である。
【名称】書名の「文華」とは,“文(章)の華やかなもの”という意味であり,「秀麗」とは“秀れて麗しい”の意味である。したがって,これをつないだものが書名のよるところである。ところで,この書名にはいくつかの特徴の見えることである。今そのうちの2点をあげてみる。その一つは,“華やかで,秀れて麗(うるわ)しい”という意識は,植物の,とくに花のイメージを想像させることで,漢詩に対して,こうした意識をもち,書名にしたものは,それ以前には見られなかったことである。その2は,個人の詩集に対しては“詩人名プラス集”の形のものとして,『何遜集』のように“集”がつかわれたが,複数の詩人のものには,『文選(もんぜん)』『玉台新詠』のように,この“集”がつかわれることは,六朝時代(222〜589)にはなかったことである。こうした複数の詩人からなるものに,“集”をつけるようになるのは,初唐以後のことで,『国秀集』はその1例である。こうした唐風がこの『文華秀麗集』の“集”として使われたものである,といわれている。
【撰者】この集は,藤原冬嗣が勅を奉じて,菅原清公(きよとも)・勇山(いさやま)文継・滋野貞主(さだぬし)・桑原公腹赤(はらあか)らと仲雄王(なかおおう)が編さんし,仲雄王が第52代の嵯峨天皇にたてまつったものである。
【内容】この集は全3巻よりなり,巻上は通し番号1〜41で,巻中は42〜95,巻下は96〜143までである。これを詳しく見るならば,巻上は「遊覧」(1〜14)・「宴集」(15〜18)・「餞別」(19〜28)・「贈答」(29〜41)となり,巻中は「詠史」(42〜45)・「述懐」(46〜50)・「艶情」(51〜61)・「楽府」(62〜70)・「梵門」(71〜80)・「哀傷」(81〜95)となり,巻下は「雑詠」(96〜143)となる。
【作者】作者は,序文では26名といっているが,実際は28名である。最も多作をなしたのは,嵯峨帝で34首,ついで巨勢識人(こせのしきひと)の20首,以下,仲雄王の13首,桑原腹赤10首,小野岑守・淳和天皇らの8首,菅原清公の7首などとなる。
【文選との関係】この集が『文選』の影響を受けていることは,『文華秀麗集』の部門名でも知られる。『文選』と同一の部門名は次のものである。「遊覧」「贈答」「詠史」「楽府」「哀傷」などがそれである。1字のみ異なるが同じ意味のものは「祖餞」→「餞別」,「詠懐」→「述懐」,「雑詩」→「雑詠」,「情」→「艶情」などであり,文字は異なるが同一の意味のものは「公讌」→「宴集」などである。
【価値】この集の価値は,他の二大勅撰漢詩集とともに,平安時代の詩界の状況や,『文選』とのかかわりを通した日中文化交流史の一面をみるにも意義がある。
〔参考文献〕小島憲三校注『文華秀麗集・懐風藻・本朝文粹』日本古典文学大系69,1964,岩波書店