●文学界 ぶんがくかい
AD
【初期】文学同人雑誌。1893年(明治26)1月創刊,1898年(明治31)1月終刊。通算58冊。星野天知が主宰し,北村透谷・島崎藤村・平田禿木・戸川秋骨・星野夕影らを同人として刊行。のちに馬場孤蝶・戸川残花・上田柳村(敏)も参加した。キリスト教的婦人文芸雑誌である「女学雑誌」を刊行していた女子雑誌社が4号まで発行,以後は文学界雑誌社発行。女子雑誌社発行の雑誌「女学生」の1892年(明治25)8月刊夏期号外が文学雑誌的編集により好評を博したため,同年末,同誌を31号で終刊させ,翌年1月より「文学界」を創刊することになったという事情がある。「文学界」は3期に分けて論じられるが,これは終刊号の巻末付載の「文学界総目録」が第1号から20号まで(1893年1月〜94年8月),21号から40号まで(1894年9月〜96年4月),41号から58号まで(1896年5月〜1898年1月)の3区分を行っているからである。
第1期を代表するのは,第17号刊行月(1894年5月)に自殺した透谷の評論で,藤村も第1期を〈北村透谷君の活動時代〉と呼んでいる。創刊号の随筆「富嶽の詩神を思ふ」は,富士を象徴とする日本文学の伝統をふりかえり,俗界を超える文学世界を語ったもので好評であったが,透谷自身にとどまらず,「文学界」の性格をも明確にしたのが第2号の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」であり,民友社の山路愛山とのあいだに人生相渉論争をひきおこした。功利的な現実の事業とは次元の異なる想の世界としての文学の独自性が情熱的に主張されており,「文学界」は高踏派とも呼ばれるようになった。さらに第5号には代表的評論「内部生命論」が掲載され,宇宙の精神とインスピレーションによって結ばれた内部の生命あってこそ文学たりうるとする生命的文学観が提示されている。「眠れる蝶」「露のいのち」などの抒情詩も発表しているが,日本の近代を〈革命にあらず,移動なり〉と批判した評論「漫罵」には自殺にいたる透谷の絶望が明らかである。ほかに創刊号の禿木「吉田兼好」・天知「阿仏尼」などが示すごとく,「文学界」には中世文学志向があり,残花も明智光秀・静御前の評伝を書いている。残花には情死をとむらう詩「桂川」があり,透谷の評論「桂川を評して情死に及ぶ」を促した。藤村は創刊号より劇詩「琵琶法師」を連載,「朱門のうれひ」等も発表したが,本領を発揮するのは第3期である。キーツ書簡の翻訳「薄命記」やペイターによった「人心の幻境を論ず」といった禿木の評論は「文学界」と西欧文学とのかかわりを示しているし,秋骨の「変調論」「活動論」も透谷を受け継ぐところがあって貴重であり,孤蝶の長詩「酒匂川」や悲恋小説「流水日記」も逸しがたい。
第2期で注目されるのは樋口一葉の小説で,すでに第3号に「雪の日」をはじめとして「琴の音」「花ごもり」「暗夜」等を発表していた一葉は,第2期に入って「大つごもり」を発表,ついで「たけくらべ」(25号より)を連載し,没年の1896年1月の37号で完結するのである。柳村の「美術の翫賞」(29号)は,豊かな学識により,西欧美術,とくに文芸復興期の名匠たちに論及,沈静した学芸の世界へと透谷没後の「文学界」を導く契機をつくった。同時掲載の藤村「聊か思ひを述べて今日の批評家に望む」では〈純粋なる日本想〉を西欧と東洋に学びつつ求めるようとする発想があり,〈活きたる俗人は死せる理想家に勝れり〉とも考え,あくまで〈活きたる俗人〉という生活者の立場から〈死せる理想家〉透谷を受け継ごうとしている。この第2期では大野洒竹(しゃちく)の俳句や田山花袋の小説も掲載され,いろどりを添えているが,一葉「たけくらベ」連載・完結の意義は大きく,この小説は商業雑誌「文芸倶楽部」に一括転載され,森鴎外らの激賞を受けて,一葉の文壇的地位を不動のものとしたのである。
第3期を代表するのは藤村の詩で,1896年(明治29)9月,東北学院の教師として仙台に赴任すると同時に,同月第45号に「草影虫語」の総題のもと「流星」以下5編,46号に「一葉舟」の総題のもと「秋のうた」以下10編,47号に「秋の夢」の総題のもと「秋風の歌」以下9編,48号に「うすごほり」の総題のもと「おえふ」以下6編,49号に「若葉」の総題のもと「明星」以下6編,50号に「さわらび」の総題のもと「潮音」以下5編,51号に「うたたね」の総題のもと「暗香」以下4編と,せきを切ったごとく発表していき,1897年「若菜集」1巻に編んで刊行するのである。〈まだあげ初めし前髪の/林檎(りんご)のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思ひけり〉ではじまる「初恋」(46号)などに代表される初々しい抒情は,初期浪漫主義の中核ともいうべき「文学界」の特色を明確に示しているといってよい。第3期を藤村は,各自がそれぞれの道を踏み出した時代と呼んでいるが,雑誌としての衰退もそこに生じ,天知は廃刊へと踏み切った。
【昭和期】昭和10年代に小林秀雄・林房雄・武田麟太郎らを同人として発刊された同名の文芸雑誌。1933年(昭和8)10月,文化公論社から創刊,1944年4月終刊。戦後いったん同人誌として復活されたが,1949年3月から商業文芸誌として文芸春秋社から発行され,現在にいたっている。創刊当初は,前記の文学者のほかに川端康成・広津和郎・宇野浩二らが参加。折からの文芸復興の気運とプロレタリア文学の退潮するなかで華々しく出発し,売行きも好調だった。創刊号に小林秀雄が「私小説について」を発表している。台頭するファシズムから文学・芸術を守ろうとする姿勢がこの期には強い。寄稿者としては,編集同人のほかに河上徹太郎・横光利一・井伏鱒二・豊島与志雄・中村光夫・高見順らの名前がみえる。すなわち,芸術派・転向者・既成リアリズム作家の三者がこの雑誌を拠点として,新しい文学活動を始めたわけである。資金難や原稿の集まりの悪さから,翌年2月にいったん休刊に追い込まれたものの,川端・林・武田らの奔走が実り〈当代の文学指導雑誌として意識的に行動する〉という編集方針を高く掲げての再刊が決まった。以後の本誌の成果には瞠目すべきものがある。すなわち,小林秀雄『ドストエフスキィの生活』(1935年1月〜1937年3月)・中村光夫『文芸時評』(1935年1月〜同年11月)・北条民雄『いのちの初夜』(1936年2月)・阿部知二『冬の宿』(1936年1月〜同年10月)・岡本かの子『鶴は病みき』(1936年6月)などである。その前後,武田・宇野・広津らが脱会する一方,島本健作・阿部知二・河上徹太郎らを新同人に迎え,発行所も文芸春秋社に移すなど変化があったが,個人主義と芸術主義を主張する近代文学精神を明確に打ち出す有力雑誌として地歩を固めていった。1937〜38年の成果としては,石川淳『マルスの歌』・島木健作『続・生活の探究』・火野葦平『河豚』・舟橋聖一『岩野泡鳴伝』・中村光夫『ギュスタブ・フロオベル』などのほか,特集記事として中原中也・北条民雄の追悼特集がある。1938年から1941年までのあいだに戦局の進展に伴い,日本主義への傾斜がみられたものの,岡本かの子『生々流転』・井伏鱒二『多甚古村の人々』・田中英光『オリムポスの果実』・太宰治『東京八景』・三木清『人生論ノート』などの秀作が発表されている。太平洋戦争の開戦後1941年,本誌は日本主義の傾斜をますます強め,林房雄が「勤皇の心」を説くなど,日本浪漫派の拠点となっていく。そして小林秀雄が「戦争と平和」「当麻」「平家物語」「徒然草」「西行」「バッハ」「実朝」を発表したのもこのあいだ(1941年3月〜1942年6月)であった。戦後の復刊でも指導的な役割を果たしており,三島由紀夫『鹿鳴館』・小島信夫『アメリカン・スクール』・開高健『裸の王様』・大江健三郎『飼育』・倉橋由美子『パルタイ』・石原慎太郎『太陽の季節』などの成果がある。
〔参考文献〕星野天知『黙歩七十年』1938,聖文閣
増田五良『文学界紀伝』1939,聖文閣
笹渕友一『「文学界」とその時代』上下,1959〜60,明治書院