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●プロレタリア文学 プロレタリアぶんがく

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文芸思潮。プロレタリアとは賃金労働者の階級、無産者階級のことで、プロレタリア文学とは字義どおりにいえば労働者文学となるが、本来はプロレタリア革命文学というべきもので、ロシア革命(1917)以降、世界各地でおこった社会主義的、共産主義的な革命文学をいう。日本においては、古く明治30年代の木下尚江などの「社会主義小説」や、堺利彦の売文社によった社会主義者たちの活動、1912年(大正1)に大杉栄や荒畑寒村によって創刊された「近代思想」掲載の作品から宮島資夫の労働文学、ついでおこった民衆芸術論、第四階級の文学論などその系譜をたどれるが、直接的には1921年に小牧近江金子洋文らによって創刊された「種蒔く人」を出発点とし、その後、日中紛争の泥沼化のなかで圧殺されるまでの十余年間の文学活動をさす。

【プロレタリア文学の発展】プロレタリア文学の幕開きとなった「種蒔く人」は、発売禁止や作品の削除にあいながらも精力的な活動をつづけていたが、1923年の関東大震災後の社会主義者弾圧のなかで休刊を余儀なくされ、廃刊された。そのあとを継ぐものとして翌年、「文芸戦線」が創刊され、ここに集う作家たちを中心に1925年には日本プロレタリア文芸連盟が結成され、初期プロレタリア文学の佳作が次々に書かれたが、運動方針の相違から組織結成の翌年には無政府主義の小川未明・壺井繁治やその他の非マルクス主義者と袂を分かち、名称も日本プロレタリア芸術連盟と改めた。しかし、これも1927年(昭和2)には青野季吉葉山嘉樹らの労農芸術家連盟(機関誌「文芸戦線」)と中野重治・鹿地亘らの日本プロレタリア芸術連盟(機関誌「戦旗」)とに分裂し、これ以後もめまぐるしく分裂や結合を繰り返して、その機関誌もさまざまであった。この間のプロレタリア文学の系統を大別すると社会民主主義系の「文芸戦線」(1924〜32、1931よりは「文戦」と改名)と、共産主義系の「戦旗」(1928〜31)の2潮流に分けられる。

 プロレタリア文学の理論的支柱となったのは1925年に1年間のソヴィエト遊学から帰国した蔵原惟人で、「戦旗」創刊号に発表した『プロレタリヤ=レアリズムへの道』は大きな影響を与えた。この派の評論に筆をふるったのはほかに中野重治・鹿地亘・宮本顕治宮本百合子らがいる。プロレタリア文学理論でおもに問題となったのは、政治と文学の二元論か一元論かという文学の機能とイデオロギーの問題であり、のちには未消化の社会主義リアリズム理論などさまざまな論争がおこった。その余波は戦後まで尾を引いていた。 小説作品としては黒島伝治『渦巻ける烏の群』・平林たい子『施療室にて』があるが、プロレタリア文学を代表するのは何といっても「戦旗」派の小林多喜二徳永直と「文戦」派の葉山嘉樹である。葉山の代表作は『淫売婦』『セメント樽の中の手紙』『海に生くる人々』で、叙情性と芸術性に優れている。小林の『蟹工船』はプロレタリア文学最大の傑作といわれ、徳永の『太陽のない街』などとともに国際作家同盟の機関誌「世界革命文学」に訳載され、国際的にも知られた。小林には『党生活者』(1932)の問題作もあり、戦後の政治と文学論争の引き金になった。小林は精力的に作品を書き、運動に挺身したが、弾圧厳しく、1933年2月20日、地下活動中逮捕され築地署内で特高警察の拷問で虐殺された。

【社会主義リアリズムと転向文学】1932年、ソヴィエトでスターリンの指導によって芸術制作の基本的方針である社会主義リアリズムが発表された。この主張は実作への応用において教条主義になった弊はあったものの、今までの優れたリアリズム文学の主張するところと共通するところも多かった。だが、発表された翌年、日本に導入されるやその適応について混乱を生み、この理論の導入が日本プロレタリア作家同盟の解散を促進したことは、プロレタリア文学の敗退が弾圧という外的力のみの問題ではなく、内部的問題としても否定することができない。

 そうしたときに獄中から共産党幹部の佐野学鍋山貞親が共同署名で「共同被告同志に告ぐる書」を発表した。共産主義からの離脱を告げるいわゆる転向声明書で、プロレタリア文学派に大きな衝撃を与え、転向するものが続出した。転向したものは反マルクス主義への完全転向から擬装転向にいたるまでさまざまであるが、治安維持法の改定強化、小林多喜二の虐殺など弾圧の激化、プロレタリア文学派の内包する問題などが相乗して、日本プロレタリア作家同盟(「戦旗」派)は、1934年2月22日付で自ら解体声明書を出した。一方の「文戦」派もこのころには逼塞し、プロレタリア文学運動は壊滅し、転向文学がこうした背景によって書かれた。徳永の『冬枯』・高見順の『故旧忘れ得べき』・島木健作の『生活の探究』・中野重治の『第一章』『村の家』などである。

【プロレタリア戯曲】大正時代の前駆的運動をへて、プロレタリア演劇運動の合同組織、東京左翼劇場が1928年に結成された。藤森成吉の『磔茂左衛門』は初期プロレタリア戯曲の代表作で、東京左翼劇場の旗上げ公演として上演の用意がなされたが、上演禁止とされた。このほかに三好十郎『傷だらけのお秋』『浮標(ぶい)』・村山知義『暴力団記』がある。また築地小劇場が分裂してできた新築地劇団も盛んにプロレタリア演劇を上演し、高揚期を迎えたが、しだいに官憲の弾圧が激しくなり、久板栄二郎の『北東の風』・久保栄の『火山灰地』などを生みながら1940年8月、主要メンバーの逮捕により解散し、プロレタリア演劇運動は終息させられた。

【プロレタリア詩】中野重治の詩は、初期プロレタリア詩を代表するもので、革命的な立場に立ちながら、口語詩の流れのなかにリズムと叙情が美的に表現されているが、その後プロレタリア文学運動の中心となって活動し、しだいに小説に転じていった。1931年の『中野重治詩集』は製本中に押収され、発行不能となっている。このほかにアナーキズムの詩人として出発し、昭和になってプロレタリア詩に転じた壺井繁治、評論家・実践活動家として活躍をした窪川鶴次郎、プロレタリア文学解体期に活動を始め、異彩を放ち画論・画家論にも筆をふるった小熊秀雄、壺井に影響されてアナーキズムの詩人として出発、しだいにマルキシズムへ移った小野十三郎らがいる。壺井繁治の象徴的反戦詩や帝国主義批判の詩も注目された。

【プロレタリア短歌】大正なかごろ以降、口語短歌が盛んになり、自由律短歌も提唱され、こうした気運のなかで石川啄木らの生活派の短歌の延長上に短歌革新が目ざされ、階級意識の高まりのなかで1928年、渡辺順之らは無産派の統一組織の無産者歌人連盟を結成し、「短歌戦線」を刊行した。こうして始まったプロレタリア短歌運動は弾圧のなかで政治性を強め、「短歌前衛」(1929)・「プロレタリア短歌」(1930)のころになると短歌の面影はみられなくなった。こうした行き方に反対した渡辺らは極端な政治主義に反対して、啄木以来の生活短歌を継承してプロレタリア短歌の再出発を図り、弾圧の下で、最後の抵抗として、生活派短歌を旗印にして「短歌時代」を1928年に創刊したが、これも2年後には廃刊せざるをえなくなった。この運動のなかで終止活躍したのは渡辺で、『貧乏の歌』や『烈風の街』などの歌集がある。

【プロレタリア俳句】昭和の初め、反ホトトギス・反伝統の下に俳句革新の運動が盛んになり、短歌の連作の影響を受け、連作俳句や無季非定型俳句が盛んに試みられ、新興俳句運動は一大潮流となった。栗林一石路は荻原井泉水の俳句革新に共鳴し句作を展開したが、プロレタリア文学理論を句作に導入し、弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめ、新興俳句と提携し、橋本夢道らとプロレタリア文学が壊滅期にあった1934年に「俳句生活」を創刊した。しかし、1941年には全員検挙投獄され、廃刊せざるをえなかった。こうした弾圧は、無季俳句のなかに戦争批判的・自由主義的な要素があったために、新興俳句にまでおよび、同じころ、新興俳句派も弾圧された。

〔参考文献〕山田清三郎『プロレタリア文学史 上・下』1954、理論社

蔵原惟人平野謙他編『日本プロレタリア文学大系 全9巻』1954〜55、三一書房

小田切秀雄『現代文学史 下』1975、集英社

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