●ブロック経済 ブロックけいざい
北アメリカ アメリカ合衆国 AD1930
1930年代に、世界恐慌に対応するために、世界の指導的な資本主義諸国が採用した排他的な広域経済をさし、自国の製品の販売や原料・食糧を確保し、植民地や従属国への支配と結合を強めたもの。
【背景】第一次世界大戦直後にみられた憎悪と対立の時代がすぎ、1920年代後半になると、生産が復興し、憎悪感もうすらいできて、国際協調を基調とした、いわゆる相対的安定期に入った。国際政治の面では、ロカルノ条約をはじめとする国際会議の成果にみられるように、集団安全保障体制が進み、国際連盟を中心にした新外交が展開された。これに伴って、経済の相互援助が進み、資金や技術の活用がはかられ、経済の復興もなったかにみえた。しかしこれは見せかけの繁栄にしかすぎず、まさに“相対的”であった。大戦中に消耗した設備・機械を新機種に代え、人手は多く要しないので雇用がのびず、一方、大戦の終了によって不用になってきた新技術を用いた軍需生産は、たとえば、戦車に使った無限軌道(キャタピラ)を開発・開拓用に用い、毒ガスを化学肥料に変えて生産するなどしたため、植民地や未開拓地における、農産物の大増産につながっていた。これが経済の安定に役立ったことも事実であるが、需要と供給の不均衡をも生みだしていた。
【世界恐慌】1929年後半、アメリカの農業・木材に始まった恐慌は、以上の事情を背景にしていた。アメリカでは恐慌が鉱・工業におよび、金融パニックへと広がり、F.ルーズヴェルト大統領による経済復興計画にいたるのであるが、アメリカの恐慌は世界に飛火して、世界恐慌をおこした。大戦を契機に、アメリカは債務国から債権国に転じたばかりでなく、世界金融の中心となり、ロンドンのボンド街からウォール街へと金融中心の移動がみられていた。そのアメリカで恐慌がおこると、アメリカ資金によって復興を進めていたヨーロッパ諸国の痛手は大きなものになった。ことにドイツ・オーストリアといった敗戦国は、アメリカ資金が引きあげられたことで、復興から一転して不況となり、インフレは進み、失業者があふれた。日本にも昭和初期の大不況がおとずれるが、世界的に大恐慌が吹き荒れ、協調ムードは一瞬にして吹きとばされた。
【自国中心主義】各国は自国の経済を防衛するのに懸命になった。ブロック経済は1932年7月、イギリス帝国会議の結果として生まれたオタワ協定から発した。イギリスはこの協定によって、伝統的な自由貿易主義を捨て、植民地と結んで、ポンド貨経済地域を設定し、その内部だけの安定と保護をはかった。これがポンド=ブロックであるが、アメリカはこれにならって、カリブ海・中南米にドル=アメリカを形成し、フランスもまた東南アジアやアフリカの植民地を包括したフラン=ブロックをつくった。これらは、ブロック内の市場・資源・労働力に排他的自国主義を強いるもので、輸入制限・差別関税・為替操作がなされたので、ほかの諸国は入りこむ余地がなかった。それゆえ、植民地をもたない諸国や経済支配圏をもたないドイツや日本はますます困窮した。それでも、ドイツでは、1936年ごろから東ヨーロッパを含めたマルク=ブロックを、日本は旧満州を含む円ブロックを形成していった。
【結果】世界恐慌を乗りきる方法として開始されたブロック経済は、賢明な方法とはいえない。協調主義から対立へ逆転した1930年代は、世界的なインフレに悩まされ、植民地に従属を強制し、エゴイスティックな帝国主義競争の再版に近い状況が出現した。世界市場から締めだされたドイツではナチスが登場し、ヒトラーが政権をとることになるし、日本は大東亜共栄圏の設立を夢みるようになってくる。オーストリアを中心にしたドナウ経済圏も一種のブロック経済であった。第二次世界大戦の原因の一つは、これらブロック経済の行きづまりと打開にあったともいえるのである。
