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●プロイセン

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 狭い意味では,ヴァイクセル川の下流域から,東はメーメル川にいたるバルト海に面した地域のこと。広い意味では,18世紀初めに発足し,1871年ドイツ統一の中心となった王国をさす。その名称は,古くこの地域に住んでいたバルト語系のプロイセン(プルッセン)人に由来する。

ドイツ騎士団国家】プロイセン人は,ドイツやポーランドがキリスト教圏に入ったのちも,13世紀初めごろまで異教を奉じ,政治的にも独立を保っていた。1226年,ポーランドのマゾヴィア公コンラートが,プロイセン人の征服とキリスト教化のため,十字軍時代の宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団を招いた。ドイツ騎士団は,神聖ローマ皇帝やローマ教皇の支持を受けつつ,しだいにプロイセン人を征服し,1283年にはこの地域全体に支配権を打ち立て,独自の領邦を形成した。この征服の過程でドイツ人の騎士や商人・農民を移住させ,ケルン・ケーニヒスベルクをはじめ,数々の都市を建設し,それらを中心に先住民の反抗を打ち砕いて,ドイツの耕地制度にもとづく農村をつくりあげていった。この騎士団国家プロイセンは,当時の封建諸侯領と異なる独特な官僚制的な統治組織をもち,ハンザ同盟の商業圏と結びついて穀物輸出などで収益をあげ,14世紀初頭には最盛期を迎えた。しかし,騎士団の専断的支配を不満とするプロイセンの諸都市や地方貴族は,やがてポーランドと結んで騎士団に反抗し,戦争の結果騎士団側は敗れて,ヴァイクセル川以西の全領域の西プロイセンと,東プロイセンの西部(エルムラント)地方をポーランドに奪われた。残りの東プロイセンでも,騎士団はポーランドの宗主権に服することとなり,その勢力は大いに衰えた。

【プロイセン公国】騎士団長は選挙で任命されたが,1511年にホーエンツォレルン家のアンスバッハ=バイロイト辺境伯アルブレヒトが選任されると,彼は1525年,ルター派の新教に改宗して領内の宗教改革を断行し,ここに世俗国家としてのプロイセン公国が成立した。アルブレヒトは,ケーニヒスベルク大学を創立するなど治績をあげたが,彼が没したのち,2代目のプロイセン公がまったく無能で,後嗣もなかったため1618年,その養子にあたるブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公の位を継承し,それ以後はホーエンツォレルン家が,ブランデンブルクとプロイセンを同君連合の形で支配することとなった。

プロイセン王国の発足】1640年に即位したブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルム(大選定侯)は,ポーランドとスウェーデンの戦争を巧みに利用して,プロイセンをポーランドの宗主権から解放した。その子フリードリヒ3世は,1701年に皇帝から「プロイセン王」の称号を得て,フリードリヒ1世と称し,その孫のフリードリヒ2世(大王)の第1次ポーランド分割により,西プロイセンもこの王の1州となった。フリードリヒ2世の父であるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世が,絶対主義的な行政機構と強力な常備軍を建設したあとを受けて,フリードリヒ大王はオーストリアのマリア=テレジアを破り,豊かなシュレジエン州を併せることによって,プロイセン王国をヨーロッパ列強の地位に高めた。

【19世紀の発展】今やプロイセンはオーストリアと肩を並べるドイツの大国となり,1806年にはナポレオンに敗れて国家の一大危機に直面したが,国制改革を通じて立ち直り,ドイツ解放戦争では主役を演じた。ウィーン会議の決定で組織されたドイツ連邦において,プロイセンはオーストリアとともに政治では保守主義を守ったが,新たに獲得したラインラントの工業地帯を踏まえて,経済政策では,ドイツ関税同盟をつくるなど近代化を推し進めた。三月革命の挫折後,しだいにオーストリアを凌ぐ力を蓄えたプロイセンは,ビスマルク首相のもとで1871年,ドイツ帝国を建設した。1918年のドイツ革命でプロイセン王は倒れてワイマール共和国の一州となり,第二次世界大戦によるナチス=ドイツの敗北とともに,ソ連占領下で完全に解体された。

〔参考文献〕林健太郎『プロイセン・ドイツ史研究』1977,東京大学出版会

山田作男『プロイセン史研究序説』1982,風間書房

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