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●ブレスト=リトフスク条約 ブレスト=リトフスクじょうやく

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1918 

 第一次世界大戦末期の1918年3月3日,現在ソ連の都市となっているブレスト=リトフスクで,ドイツならびにその同盟国のオーストリア・ブルガリア・トルコとソヴィエト政権とのあいだで締結された単独講和条約をいう。

【成立の過程】その内容は広範な領土の喪失と賠償義務を課されたソ連側にきわめて過酷なものであった。連合国はこの条約に反対し,やがてイギリス・フランス・アメリカ・日本が対ソ干渉戦争に乗り出したが,ソヴィエト内でもこの講和をめぐり見解が激しく対立した。1917年11月7日のボルシェヴィキ革命によって成立したソヴィエト政権は,直ちに平和に関する布告を発し,交戦国にむかって無併合・無賠償・民族自決の原則にもとづく講和を呼びかけた。これに対して,ドイツ・オーストリアは,ロシアの離脱による東部戦線の解放を期待し,同年12月3日からドイツ東部軍司令部の所在地であったブレスト=リトフスクで独ソ休戦交渉を開始して.12月15日に1カ月の休戦条約を調印,ついで,同じブレスト=リトフスクで講和条約の締結交渉を12月22日から進めた。ドイツ全権は外相キュールマンと将軍ホフマン,オーストリア全権は外相チェルニンであり,ソヴィエト側はヨッフェらが出席した。ソヴィエト側ではブハーリンヨッフェトロツキーらの党幹部が講和交渉を革命宣伝の場に利用し,ヨーロッパ革命世界革命の誘発を期待したのに対して,ドイツ側の講和の要求は過酷で,ソヴィエト側の主張した“無併合・無償金・民族自決”の3原則は全面的に拒否された。そこでソヴィエト側では,トロツキーが屈辱的なドイツとの講和に反対して1918年2月10日条約調印を拒否し,〈講和でもなく,戦争でもない〉と宣言し,交渉は決裂した。2月18日ドイツ軍は攻勢を再開し,バルト沿岸からペテログラードに迫る勢いを示すとともに,ウクライナにも進出した。この重大な危機に直面したボルシェヴィキ中央委員会はトロツキーの主張を抑え,ルーデンドルフ軍事独裁下のドイツの高圧的な条件でものまざるをえないというレーニンの現実路線を承認した。その結果いっそう苛酷な内容となったブレスト=リトフスク条約が3月3日に調印された。ソヴィエトはこれを3月6日の第7回党大会で承認するとともに,16日の第4回ソヴィエト大会で批准した。しかし,この条約がソヴィエトにとって不利な内容ではあれ,その反面,戦争から解放され国家再建の基礎を固めることができた。レーニンは〈これは講和ではない。単なる革命の息ぬきだ〉と主張し,まもなく到来するドイツの敗戦を予測していた。

【内容】ポーランド・リトアニア・エストニア・クールラント(ラトヴィア西部)の主権の放棄,フィンランド・オーランド島からの撤兵,ウクライナの独立,トルコへの一部の地域の割譲など,広範囲の領土を失うことが条約の内容であり,さらに同年8月27日の付属条約によってソヴィエトは60億金マルクの賠償義務を強要された。この条約により,ドイツは一時フィンランド・バルト海地方・ウクライナに進出し,戦争経済の広域圏を支配できたかにみえたが,その後まもなく,同年11月のドイツ革命の勃発とともにソヴィエト政府は直ちに条約の廃棄を宣言し,ブレスト=リトフスク条約はヴェルサイユ会議で失効した。1960年代に第一次世界大戦のドイツの戦争目的をめぐる大論争をひきおこした西ドイツの歴史家フリッツ=フィッシャー(1908〜 )は,〈1914年8月のベートマン=ホルヴェークの諸計画はブレスト=リトフスク条約とその追加条約のなかで実現をみた〉と述べ,戦争目的の連続性を強調している。