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●ブルボン家 ブルボンけ

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

 フランスの王家で,ヨーロッパ諸国の王を出した家族。

【起源】フランス中央部のブルボネ地方に最初の領地があったことからこの名が生じた。1272年,女性相続人ベアトリスが,カペー朝の国王ルイ9世の第6子ロベール=ド=クレルモンを配偶者とするに至って,同家の王国内に占める地位は大きく上昇した。二人のあいだに生まれたルイ1世は最初のブルボン公(1327〜41)となり,長男ピエールが家督を継ぎ,次男ジャックはラ=マルシュ伯となった。16世紀まで,二つの家系が並存し,本家(ブルボン公)は,ピエールからシャルルまで8代を数えたが,1527年に絶えた。分家(ラ=マルシュ伯)は,ジャックの子ジャン1世のときヴァンドーム伯となり(1374),7代目のシャルルは国王フランソワ1世によって公爵にとりたてられ(1515),さらに本家の断絶後はブルボン一族の首領となった。8代目のアントワーヌは,ナヴァール王女ジャンヌと結婚してナヴァール王と呼ばれ(1555),二人のあいだに生まれたアンリは,フランス国王アンリ2世の娘マルグリットと結婚したが(1572),国王と息子のアンリ3世とが相次いで死去したため,王位継承者となり,即位してブルボン朝をたてた(1589)。

【フランスのブルボン王家】アンリ4世から数えて7人の王が出た。アンリ4世は新教徒であったが,即位にあたってカトリックに改宗し,同時にナントの勅令を発して新教徒にも信仰の自由を保証した。ルイ13世は前王の方針を受け継ぎ,リシュリューを登用して中央集権化を促進し,ルイ14世の時代にはフランス絶対主義はゆるぎないものとなった。しかし,度重なる侵略戦争の結果,国力に衰えがみえはじめ,ルイ15世はフルリの補佐の下に経済復興に努め,再び安定をとりもどした。知的活動の面においても『百科全書』が出版され,「啓蒙の時代」と呼ばれた。しかし,晩年には七年戦争に敗北し,海外領土を大量に喪失するなど失政が多く,財政は悪化し,ルイ16世による改革も効を奏せぬまま,大革命をむかえた。1792年,王制廃止が宣言され,翌年1月国王は処刑された。ナポレオンの没落(1814)によってブルボン朝が復活すると,ルイ18世シャルル10世が即位したが,1830年の革命で退位。ブルボン傍系のオルレアン公フィリップが“フランス人の王”として王位につき,オルレアン朝をたてたが,1848年の革命で瓦壊した。ナポレオン3世の失脚後,ブルボン王朝復活の機運が訪れたが,結局は共和政が宣言され(1870),さらにシャルル10世の孫のシャンボール伯の死(1883)とともに,王家再興の望みは絶たれた。

【スペイン・ナポリ・シチリア・パルマのブルボン家】18世紀には,フランス以外の諸国でもブルボン家の王が誕生し,1761年には「家族協定」が締結されて一族の結束が確認された。スペインのブルボン家は,ルイ14世の孫アンジュー伯フィリップが,1700年,フェリペ5世として即位したことに始まる。イギリス・オーストリアがこれに反対し,スペイン継承戦争が始まったが,ユトレヒト条約によってスペインのブルボン朝は承認された。その統治は幾度か中断しながらも,1700〜1808年,1814〜68年,1874〜1931年とつづき,1975年ファン=カルロス1世の即位によって3度復活した。パルマ公国のブルボン家は,スペイン王フェリペ5世の第4子のときに始まり,1748年から1859年までつづいた。ナポリ・シチリア(両シチリア王国)のブルボン家は,スペイン王カルロス3世の第3子フェルナンドのときに始まり,1759年から1860年までつづいた。

〔参考文献〕H.メチヴィエ,前川貞次郎訳『ルイ十四世』1955,文庫クセジュ

H.メチヴィエ,安斎和雄訳『啓蒙時代−−ルイ十五世の世紀』1968,文庫クセジュ